弁当箱は、空だった。
結城奏(ゆうき・かなで)は、依頼人の前でそれを開けたまま、しばらく何も言えなかった。
中には手紙もない。写真もない。メモもない。米粒1つ残っていない。きれいに洗われ、乾かされ、ふたの裏に小さな傷があるだけの弁当箱。
「これを、母の最後の言葉にしてほしいんです」
依頼人の青年、相沢拓人はそう言った。
年齢は二十六。黒いスーツの袖が少し長い。葬儀のあと、そのまま来たのだろう。ネクタイの結び目だけが、何度も直した跡で歪んでいた。
「お母さまからの録音や日記は」
「ありません」
「スマートフォンのメッセージは」
「ほとんど消しました。喧嘩ばかりだったので」
拓人は弁当箱を見た。
「これだけ、捨てられなかった」
奏の仕事は、亡くなった人の記録を整理し、残された人が読める形にすることだった。
けれど、記録が何もない依頼は難しい。
言葉がなければ、手紙は作れない。
少なくとも、作ってはいけない。
「お母さまは、最後に何かおっしゃっていましたか」
拓人は首を横に振った。
「最後に会ったとき、俺が言いました」
「何を」
拓人は、少し笑った。
笑う場面ではないのに、人はたまに笑う。
壊れないために。
「もう弁当とかいらないって。子どもじゃないんだから、って」
弁当箱のふたの傷に、奏の指が止まった。
「お母さまは」
「わかった、って言いました。それだけです」
それだけ。
その言葉の中に、何年分の朝が入っているのだろう。
奏は弁当箱を預かり、拓人の実家を訪ねた。
台所は狭かった。シンクの横に、古い炊飯器がある。冷蔵庫には、スーパーの特売日を書いたカレンダー。戸棚の奥には、同じ形の弁当箱が3つ並んでいた。
1つは高校時代。
1つは浪人時代。
1つは、社会人になってから。
母は、息子の年齢に合わせて弁当箱を買い替えていた。
それなのに、拓人は「いつまでも子ども扱いするな」と言った。
奏にも、似た記憶があった。
母が作った味噌汁に、疲れていたからという理由で手をつけなかった夜。
「あとで飲む」と言って、結局流しに捨てた朝。
母は何も言わなかった。
何も言わない人の言葉ほど、あとから大きくなる。
奏は戸棚の奥から、小さなノートを見つけた。
レシピ帳ではなかった。
日付と、献立だけが書かれている。
5月14日。卵焼き甘め。唐揚げ2つ。梅干し残す。
6月3日。鮭。小松菜。帰宅後、全部食べたと言う。
8月27日。暑い。保冷剤2つ。ご飯少なめ。
最後のページには、こうあった。
もういらないと言われた日。弁当箱、空で返ってきた。
その下に、線が引かれていた。
それでいい。
奏は、その一行を何度も読んだ。
母は、傷つかなかったわけではない。
寂しくなかったわけでもない。
けれど、空で返ってきた弁当箱を見て、息子が食べたことだけを受け取った。
怒りより、安心を選んだ。
手紙には、母の言葉だけを書くことにした。
足さない。
飾らない。
弁当箱の中に、ずっと入っていたものを、取り出すだけでいい。
後日、拓人は奏の事務所で手紙を読んだ。
拓人へ。
お弁当はいらないと言われた日、少し寂しかったです。でも、空で返ってきたので安心しました。いらないと言いながら、食べてくれたんだと思いました。
あなたが大人になったことを、私はいつも少し寂しく、少し誇らしく思っていました。
ありがとうと言われなくても、食べてくれた日は、ありがとうに見えました。
拓人は、声を出さずに泣いた。
涙が弁当箱のふたに落ちた。
空だった箱に、ようやく何かが戻ったように見えた。
帰り際、拓人は言った。
「最後に、ありがとうって言えませんでした」
奏は首を横に振った。
「空で返した日は、届いていたのかもしれません」
その夜、奏は自宅で母の封筒を机に出した。
3年間、開けられなかった手紙。
封筒には、奏の筆跡で日付が書かれている。
指先をかけた。
けれど、開けられなかった。
代わりに、台所へ行き、味噌汁を温めた。
母の味には、ならなかった。
それでも奏は、最後まで飲んだ。
最後の手紙を、君が読む日
2 / 24
このシリーズの全話 24編
- 第1話:声のない留守番電話
- 第2話:空の弁当箱
- 第3話:名前のない誕生日
- 第4話:青インクの消印
- 第5話:まだ早い手紙
- 第6話:好きな場所へ行きなさい
- 第7話:空席の指定席
- 第8話:母の声を知らない日
- 第9話:読まないでいた理由
- 第10話:頼みごとの封筒
- 第11話:同じ日付の依頼人
- 第12話:返事を持つ姉
- 第2部序章:3年後への配達
- 第2部第1話:先に届いた消印
- 第2部第2話:閉まる予定の事務所
- 第2部第3話:開く前の予約
- 第2部第4話:母が受け取った手紙
- 第2部第5話:第13箱の受取人
- 第2部第6話:十四番の空欄
- 第2部第7話:14年前の返送人
- 第2部第8話:亡き人への返事
- 第2部第9話:消えた第15箱
- 第2部第10話:頼みごとの封筒
- 第2部第11話:3年前の取消票
