玄関を開けた瞬間、遼(りょう)は味噌汁の匂いを感じた。
その匂いだけで、間違った家に帰ってきたのだと思った。
母は、味噌汁を作らない。
正確には、父が出て行った日から作らなくなった。理由を聞いたことはない。けれど遼は知っていた。鍋の中で湯気が立つと、父が帰ってくるような気がしてしまうからだ。
だから、10年ぶりの匂いだった。
「遼、遅かったな」
居間から聞こえた声に、遼の足が止まった。
父だった。
テレビの前に座り、新聞を畳み、何もなかったようにこちらを見ている。
「手、洗ってこい。今日は鯖だぞ」
母は台所で笑った。
「お父さん、遼が魚苦手なの忘れてる」
お父さん。
その呼び方が、家の壁に自然に吸い込まれていく。
遼は靴を脱げなかった。
父が帰ってきたのではない。
父が、ずっといたことになっている。
透明町で2つ目を疑ったあと、スマートフォンに父からの通知が届いた。写真館で見た家族写真には、父の手だけが写っていた。
帰るものがあれば、消えるものもある。
兄の伊月(いつき)がそう言った。
遼はスマートフォンを開いた。
連絡先を探す。
兄。
伊月。
どちらもない。
代わりに、父の連絡先が3つあった。
父 携帯。
父 会社。
父 釣り用。
釣り用とは何だ。
遼は笑いそうになった。
笑えば、壊れると思った。
食卓には、4人分の箸が並んでいた。
遼、母、父。
そして、空の席。
「そこ、誰の席」
遼が聞くと、母は不思議そうに首を傾げた。
「おばあちゃんが来るかもしれないから、一応」
違う。
そこは兄の席だった。
伊月は窓際に座って、魚の骨をやたらきれいに取った。母が感心すると、父が悔しそうに真似をした。遼はそれを見て、早く大人になりたいと思った。
その記憶が、頭の中で少しずつ薄くなる。
遼は椅子に座らず、台所へ行った。
冷蔵庫に貼られた写真を見た。
家族旅行。
運動会。
父の日。
写真の中に、兄はいない。
最初からいなかったように、余白すら残っていない。
ただ1枚だけ、妙な写真があった。
海辺で撮られた3人の写真。
父、母、遼。
3人とも笑っている。
けれど遼の右肩に、誰かの手だけが乗っていた。
透明な手。
「これ、誰が撮ったの」
遼は写真を指さした。
父は新聞を置いた。
「お前だろ」
「俺、写ってるけど」
父は少し黙った。
母も、包丁を止めた。
その沈黙は、初めてこの家が間違いに気づいた音だった。
次の瞬間、固定電話が鳴った。
母が取ろうとしたので、遼は先に受話器を掴んだ。
雑音の向こうで、兄の声がした。
「3つ目を疑うな」
「兄ちゃん、どこにいる」
「お前の家だ」
遼は周囲を見た。
父がこちらを見ている。母も見ている。空の席だけが、誰かを待っている。
「見えないだけだ」
伊月は言った。
「遼、よく聞け。透明町は、失くしたものを返す街じゃない。失くした理由を、別の形にする街だ」
電話の向こうで、何かが擦れる音がした。
「父さんを疑ったな」
「うん」
「じゃあ、父さんがいた家族史が置かれた。代わりに、俺がいない家族史が近づいてる」
遼は受話器を握りしめた。
「戻すには」
「疑うんじゃない。確かめろ」
「何を」
「俺がいた証拠じゃない」
伊月の声が、急に遠くなった。
「俺がいなくても、残るはずのものを探せ」
通話は切れた。
遼は空の席を見た。
そこには、箸が置かれている。
1本だけ、先端に小さな歯形があった。
兄は箸を噛む癖があった。
母に何度も怒られていた。
写真は消える。
連絡先も消える。
けれど癖がつけた傷だけは、まだ残っている。
遼は箸を手に取った。
父が言った。
「遼、それは誰のだ」
母も同じ顔でこちらを見る。
遼は答えた。
「まだ見えない人の」
台所の電気が、一瞬だけ消えた。
暗闇の中で、空の席に誰かが座っている気配がした。
次に灯りがついたとき、箸は二膳増えていた。
一膳は兄のもの。
もう一膳は、誰のものかわからなかった。
透明な街の解き方
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