三枝晴子(さえぐさ・はるこ)さんは、留守番電話を消せない人だった。
夫が亡くなってから3年。携帯電話はもう新しい機種に変わっていたが、古い端末だけは、仏壇の引き出しにしまわれている。充電器の接触が悪く、画面も端から黒く滲んでいる。それでも月に一度、晴子さんはそれを充電する。
理由は1つだった。
そこに、夫の声が残っている。
「たいしたことは言ってないんです」
晴子さんは、私の前で何度もそう言った。
私は記憶編集の仕事をしている。
亡くなった人の写真、日記、音声、メール、手帳の切れ端を預かり、残された人が受け取れる形に整える。AIは膨大な記録を並べ替え、言葉の癖や生活の順番を見つける。私はそれを読み、削り、整え、最後に人の手で1通の手紙にする。
けれど、晴子さんが持ってきたものは、たった1件の留守番電話だった。
再生時間は12秒。
夫の声は、少し息が切れていた。
晴子、卵買って帰る。あと、駅前の花、まだ咲いてた。
それだけだった。
愛している、も。ありがとう、も。先に行ってごめん、もない。
ただ、卵を買って帰るという報告と、駅前の花がまだ咲いていたという、どうでもいい知らせだけ。
晴子さんはその声を聞くたび、泣くのではなく、困ったように笑った。
「ね、たいしたことないでしょう」
私は答えなかった。
たいしたことがない言葉ほど、人は捨てられない。
大きな言葉は、思い出として飾れる。感謝も、謝罪も、愛の告白も、額に入れれば形になる。けれど、卵を買って帰るという言葉は、生活そのものだ。帰ってくるはずだった人の足音が、そこに入っている。
私は音声を何度も聞いた。
雑音の奥に、踏切の音がした。遠くで子どもが笑っている。風が強かったのか、マイクに細かい音が当たっている。
駅前の花。
私は晴子さんに聞いた。
「その花、何の花だったか覚えていますか」
晴子さんは少し考えた。
「たぶん、コスモスです。駅前の花壇に、毎年植えられてたから」
「ご主人は、花を見る方でしたか」
「いいえ」
即答だった。
「あの人は、花なんて全然。私が何か植えても、草が伸びてるぞって言うような人でした」
晴子さんはそこで、初めて口元を押さえた。
「だから、不思議なんです。どうしてあの日だけ、花のことなんて言ったのか」
私は、預かった写真の中から1枚を選んだ。
若い2人が、駅前で並んでいる。晴子さんは白いブラウスを着て、夫は照れたように片手をポケットに入れている。背景には、小さな花壇が写っていた。
「この写真は」
「結婚する前です。初めて、ちゃんと待ち合わせをした日」
晴子さんの声が、少しだけ若くなった。
「私が30分遅れたんです。もう帰ったと思ったら、あの人、駅前の花壇の前で立っていて」
「怒っていましたか」
「怒ってました。すごく。でも、私が謝ったら、花を見てたから退屈しなかったって言ったんです」
晴子さんは、そこで黙った。
私は何も言わなかった。
言葉が、自分で帰る場所を見つけるまで待った。
やがて晴子さんは、古い端末を両手で包むように持った。
「あの人、覚えてたんですね」
私は頷いた。
留守番電話の12秒は、買い物の報告ではなかった。
それは、37年前の待ち合わせ場所から送られた手紙だった。
まだ咲いてた。
その言葉の中に、彼はたぶん、いろんなものを入れた。
君を待っていた日の花。遅れて走ってきた君。怒っていたのに、顔を見たら許してしまった自分。あれから何10年も経って、今日も同じ道を通ったこと。もう若くはないけれど、まだ帰る場所があること。
私は手紙を書いた。
晴子さんへ。
卵を買って帰る、と言ったのは、夕飯を一緒に食べるつもりだったからです。駅前の花がまだ咲いていた、と言ったのは、君と初めて待ち合わせた日のことを思い出したからです。
あの日も、私は花を見ていました。
でも本当は、花なんか見ていませんでした。
君が来る方ばかり見ていました。
37年たっても、それはあまり変わりませんでした。
晴子さんは読み終えると、泣かなかった。
ただ、古い端末の再生ボタンを押した。
晴子、卵買って帰る。あと、駅前の花、まだ咲いてた。
12秒が終わる。
晴子さんは、端末を閉じた。
「もう、大丈夫です」
その声は震えていたけれど、どこか明るかった。
「卵、買って帰ります」
私は晴子さんを見送ったあと、事務所の引き出しを開けた。
奥に、1通の封筒がある。
母の字で、私の名前が書かれている。
結城奏(ゆうき・かなで)へ。
3年前から、私はそれを読めずにいる。
他人の最後の言葉なら、いくらでも整えられる。残された人が受け取れるように、順番を変え、余白を作り、言えなかった愛情を探せる。
けれど、自分に届いた最後の手紙だけは、開けない。
封筒の右下には、なぜか日付が書かれている。
母の字ではない。
私の字だった。
私は今日も、その封を切れなかった。
最後の手紙を、君が読む日
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このシリーズの全話 24編
- 第1話:声のない留守番電話
- 第2話:空の弁当箱
- 第3話:名前のない誕生日
- 第4話:青インクの消印
- 第5話:まだ早い手紙
- 第6話:好きな場所へ行きなさい
- 第7話:空席の指定席
- 第8話:母の声を知らない日
- 第9話:読まないでいた理由
- 第10話:頼みごとの封筒
- 第11話:同じ日付の依頼人
- 第12話:返事を持つ姉
- 第2部序章:3年後への配達
- 第2部第1話:先に届いた消印
- 第2部第2話:閉まる予定の事務所
- 第2部第3話:開く前の予約
- 第2部第4話:母が受け取った手紙
- 第2部第5話:第13箱の受取人
- 第2部第6話:十四番の空欄
- 第2部第7話:14年前の返送人
- 第2部第8話:亡き人への返事
- 第2部第9話:消えた第15箱
- 第2部第10話:頼みごとの封筒
- 第2部第11話:3年前の取消票
