母の手紙は、思っていたより軽かった。3年間、机のいちばん下で石のように重かったのに、封を切った紙は指の間で頼りなく震えた。奏は最初の一行を二度読んだ。そこに謝罪はなかった。「奏へ。頼みごとを1つだけ残します」とあった。
録音機は止めていた。母の声で読んだら、また母の言葉を遺言にしてしまう気がした。奏は自分の呼吸の音だけがする仕事部屋で、便箋を机に置いた。窓の外では、隣の家の人が布団を取り込んでいた。ありふれた午後だった。
頼みごとは、母の代わりに誰かを許してほしいというものでも、家を守ってほしいというものでもなかった。「私の代わりに生きないでください」。その一文の下に、小さく、「あなたの今日を、私の続きにしないで」と続いていた。
奏は椅子から立ち、台所へ行った。水を飲み、戻り、もう一度読んだ。意味は変わらなかった。母は、自分を忘れないでとは書いていない。自分の死を、奏の仕事や優しさの理由にしないでほしいと頼んでいた。
「勝手だよ」奏は声に出した。生きているときに言ってほしかった。最後の日、奏が「お母さんのために仕事を選んだんじゃない」と怒鳴ったとき、黙らずに言ってほしかった。その怒りは、手紙を読んだことで消えなかった。消えないことに、少し安心した。
母を1人の人として読む
便箋の2枚目には、母の失敗が並んでいた。奏の進路を心配するふりをして、自分が寂しいから引き止めたこと。体調が悪い日にも大丈夫だと言い、あとで察してくれなかったと腹を立てたこと。母親なら正しく愛せると思い込み、できない自分を隠したこと。
どれも奏が知らない母ではなかった。ただ、母自身がそれを知っていたことを、奏は知らなかった。母は立派な言葉を遺す人ではなく、言いすぎて後悔し、黙りすぎてまた後悔する1人の人だった。
最後に呼んだ別の名前についても書かれていた。母が呼んだのは、若い頃の友人、千佳だった。病室から連絡しようとして、怖くなってやめた相手。奏が傷つけた誰かではない。母が自分でやり残した会話だった。
奏は長い間、その空白を自分の罪で埋めていた。知らない名前は、自分が奪ったものの名前に違いないと思っていた。だが母にも、奏が知らない友情があり、言えなかった謝罪があり、娘には片づけられない人生があった。
手紙を読み始める前、奏は仕事で使う手袋をはめようとした。古い紙を傷めないための薄い手袋だ。けれど母の封筒を資料として扱えば、読み終えられる気がした自分に気づき、外した。紙の端が指に触れた。母が触った同じ場所かもしれないし、そうではないかもしれない。その曖昧さのまま読むことにした。
1枚目の裏には買い物の覚え書きがあった。牛乳、ねぎ、台所用スポンジ。母は専用の便箋を探さず、日常の途中にあった紙へ書いたのだ。奏はその三品を見て、最後の手紙を特別なものにしすぎた3年間が、急に可笑しく、腹立たしくなった。
母は「あなたは人の記憶をきれいに並べすぎる」とも書いていた。欠けた録音、間違えた日付、言い直した言葉。それらを消さずに渡すことが、残された人を信じることではないか。奏の仕事への批評であり、母親らしい余計な口出しでもあった。
奏は過去の納品記録を開いた。依頼人が迷うと思って削った沈黙、重複だからと省いた買い物メモ、聞き苦しいから整えた笑い声。誠実に仕事をしてきたつもりだったが、整えることで、故人を立派にしすぎたこともあった。
そこで晴子(はるこ)へ、削除した録音のバックアップをどうするか確認した。晴子は「消すと決めたから消してください。でも、消した日付だけ私にください」と頼んだ。なくしたものではなく、自分で手放した日を覚える。その選び方を奏は新しい記録票へ追加した。
母の友人・千佳の連絡先は手紙に書かれていなかった。「探さなくていい。これは私ができなかったこと」とあった。奏はその線を尊重することにした。母の心残りを娘の宿題にしない。それもまた、母を1人の大人として扱うことだった。
昼食を忘れていたことに気づき、奏は冷蔵庫を開けた。卵が2つあった。晴子の夫の録音を思い出し、卵焼きを作った。焦げ、形も崩れたが、写真には撮らなかった。誰かへ意味を渡すためではなく、自分が食べる昼食だった。
新しい依頼人を迎える前、奏は説明書の冒頭を書き換えた。「私は言葉を完成させる人ではありません。渡す人と受け取る人の間に、選べる形を作ります」。その文を声に出すと、母の仕事を継ぐのではなく、自分の仕事へ戻れた気がした。
男が来るまでの10分間、奏は母の手紙を読み返さなかった。代わりに窓を開け、仕事部屋の空気を入れ替えた。母を理解した証明を集めるより、理解できない部分を残すことにした。愛していたことと、傷ついたことは、どちらか一方へ整えなくてよかった。
母の頼みごとの末尾には、「たまには役に立たない1日を過ごしてください」とあった。奏は予定表の翌日午後を空白にした。墓参りでも手紙の整理でもない時間。何をするか決めないことを、初めて予定として残した。
新しい記録票には、依頼人が途中でやめられる欄も加えた。読まない、渡さない、保存しない。できることだけでなく、しないことを選べるようにする。母の手紙を3年読まなかった時間も、無駄ではなく自分を守る選択だったと、ようやく認められた。
奏は空になった茶碗を自分で洗い、伏せた。生活へ戻る音がした。
「全部、私に預けないでよ」奏は便箋に向かって言った。すると、3枚目の最初に「これはあなたに片づけてもらうための手紙ではありません」とあり、思わず笑った。母は遅れて反論してきた。そのタイミングの悪さまで、よく知っている母だった。
仕事へ戻る
夕方、三枝晴子から電話があった。第1話の依頼人は、夫の録音を1つ消したという。「卵を買って帰る、っていうのは残しました。もう1つ、同じ日の天気予報だけの録音を消したの。大丈夫だった」奏は「よかったですね」と言いかけ、やめた。
「寂しくなりませんでしたか」と聞いた。晴子は少し黙って、「なったよ。でも寂しくなることと、間違えたことは同じじゃないね」と答えた。奏はその言葉をメモしなかった。仕事の材料ではなく、自分の今日に置いておきたかった。
電話の後、奏は母の手紙を元の封筒へ戻した。ただし机のいちばん下にはしまわなかった。窓辺の棚に立て、隣に今日の日付を書いた無地の封筒を置いた。母への返事を書くかどうかは、まだ決めなかった。
そこへ新しい依頼のメールが届いた。件名は「最後の手紙ではない手紙について」。差出人は、長く疎遠になった姉に、まだ生きているうちに手紙を渡したいという男性だった。奏は、死後の言葉だけを整える仕事ではないのかもしれないと思った。
翌朝、依頼人は予定より10分早く来た。六十代半ばの男は、厚い封筒を両手で持ち、「亡くなった人の記録じゃなくても、読んでもらえますか」と聞いた。以前の奏なら、業務範囲を説明して断っただろう。
「読めるかどうかは、先に決めません」と奏は答えた。「まず、渡したい日の話を聞かせてください」男の肩が少し下がった。奏は録音機を置き、赤いランプをつける前に、温かい茶を出した。
男が封筒を机に置いた。その右下の日付を見て、奏の手が止まった。母の封筒に、なぜか奏自身の筆跡で書かれていた日付と同じだった。男は奏の顔を見て言った。「その日、私はあなたのお母さんに会っています」
最後の手紙を、君が読む日
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このシリーズの全話 24編
- 第1話:声のない留守番電話
- 第2話:空の弁当箱
- 第3話:名前のない誕生日
- 第4話:青インクの消印
- 第5話:まだ早い手紙
- 第6話:好きな場所へ行きなさい
- 第7話:空席の指定席
- 第8話:母の声を知らない日
- 第9話:読まないでいた理由
- 第10話:頼みごとの封筒
- 第11話:同じ日付の依頼人
- 第12話:返事を持つ姉
- 第2部序章:3年後への配達
- 第2部第1話:先に届いた消印
- 第2部第2話:閉まる予定の事務所
- 第2部第3話:開く前の予約
- 第2部第4話:母が受け取った手紙
- 第2部第5話:第13箱の受取人
- 第2部第6話:十四番の空欄
- 第2部第7話:14年前の返送人
- 第2部第8話:亡き人への返事
- 第2部第9話:消えた第15箱
- 第2部第10話:頼みごとの封筒
- 第2部第11話:3年前の取消票

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