自分が差出人になる日
母の依頼台帳の最後の頁には、奏の名前が二度あった。差出人、結城奏(ゆうき・かなで)。宛先、3年後の結城奏。受付日は空欄で、配達条件だけが書かれている。「返事を読んだ夜、自分の言葉で依頼すること」。
奏は事務所の机に、母への返事を広げた。一度読んで、忘れることを選んだ手紙。そこには、許すとも許さないとも書いていなかった。ただ「私は今日、カレーを焦がしました」「千佳は笑いました」「また話せる日まで、生活しています」とあった。
千佳は向かいの椅子で待った。「3年後に何を言いたい?」
「分からない」
「じゃあ、分からないまま書けばいい。お母さんへの返事も、そうだったんでしょう」
他人の手紙なら、奏は待つことができる。自分の手紙になると、正しい結論を急いでしまう。その癖まで母は知っていた。
配達条件を決める
未来の自分への手紙は、ただ保管すればいいわけではない。奏の事務所では、差出人が亡くなった場合、受取人が拒んだ場合、住所が変わった場合を1つずつ確認する。今回は差出人と受取人が同じだ。だからこそ、拒否する権利をどう守るかが難しかった。
奏は契約書の受取欄に書いた。「3年後の私が、今の私を嫌っていても、開封を強制しない」。千佳が「それだけ?」と聞く。
「もう1つ。読まなかった場合も、失敗と記録しない」
母の手紙を読めなかった年月を、奏は長く遅延だと思ってきた。だが、読まないことで生活を守った時間もあった。手紙は開封された瞬間だけでなく、待たれている間にも受取人を支えることがある。
保管箱は三重に封じた。1つ目の鍵は奏、2つ目は千佳、3つ目は事務所の後継者が持つ。3年後の奏が1人きりで過去に捕まらないための仕組みだった。
書けない一行
便箋の一行目を、奏は5回捨てた。「元気ですか」は無責任に見え、「幸せですか」は脅しに見えた。「母を許せましたか」と書いた瞬間、千佳がペンを止めた。
「3年後の私たちに、宿題を出さないで」
奏は便箋を裏返した。窓の外では、宅配便の自転車が信号を待っていた。誰かの荷物は、今この瞬間にも普通に届く。すべての配達に人生の結論が必要なわけではない。
新しい一行目は、「今日、千佳と夜食を食べました」になった。続けて、母の返事を読めたこと、読んでも世界が劇的に変わらなかったこと、明日の仕入れを忘れていることを書いた。そして、3年後の自分に尋ねた。
「あなたは最近、誰かと普通のごはんを食べましたか」
答えを要求しない問いだった。奏はようやく、未来の自分を依頼人として扱えた気がした。
母の台帳の仕掛け
台帳を紫外線灯にかざすと、受付日の空欄に薄い文字が浮かんだ。母の筆跡ではない。奏自身の字だった。日付は7年前、母が病院へ入る前の週。
記憶が戻った。母に頼まれ、奏は事務所の封筒整理を手伝った。そのとき、冗談のように言ったのだ。「もし私があなたの手紙を読めたら、3年後の私にも届けて」。母は条件を聞き、台帳に記入させた。
母は未来を知っていたのではない。奏の曖昧な依頼を、勝手に完成させず保管していた。最後まで、配達員だった。
「お母さん、何も決めてなかったんだね」と千佳が言った。
「決めないことを守ってた」
2人はしばらく黙った。母の愛情を美しい答えに変えなくても、そこにあった仕事は認められる。奏は台帳の受付欄へ、今日の日付を正式に追記した。
3年後へ
封筒を閉じる前、奏は小さな写真を1枚入れた。母の写真ではない。焦げたカレーを前に、千佳と2人で笑っている昨夜の写真だ。過去を証明するものではなく、生活が続いている証拠。
千佳も一行だけ加えた。「読んでも読まなくても、帰りに何か食べよう」。奏はその軽さに救われた。
箱を保管棚へ納める。棚番号は3年後まで誰にも見えない仕組みにした。作業が終わると、奏は事務所の照明を半分消した。母の手紙へ近づく物語は、一度ここで終わった。次は、奏が手紙を預かる側として、時間を引き受ける物語になる。
帰り道、姉妹は駅前の店でうどんを食べた。特別な記念日にはしなかった。3年後の手紙に書いた通り、普通の食事をした。
先に届いていたもの
翌朝、保管記録を確認した奏は、箱の重量が登録時より十四グラム重いことに気づいた。封印は破られていない。千佳の鍵も、後継者用の鍵も使われていない。
箱を透過灯に載せると、底板の下にもう1通の封筒が見えた。昨日はなかったはずなのに、古い紙の色をしている。
緊急開封手順で底板だけを外した。封筒の宛名は「現在の結城奏」。差出人欄は空白。右上の消印には、3年後の日付が刻まれていた。
奏は開けなかった。まず時刻を記録し、千佳へ電話し、第三者を呼んだ。どれほど不思議な手紙でも、手順は受取人を守る。
受話器の向こうで千佳が言った。「3年後から返事が来たの?」
奏は封筒の厚みを測った。「違う。これは、私たちが送る前から待っていた手紙かもしれない」。
第2部最初の依頼は、先に届いた消印の持ち主を探すことになった。
保管する人の責任
3年後の消印を持つ封筒は、事務所の相談室へ移された。奏は開封前の写真を十二方向から撮り、紙の繊維を非破壊で調べた。紙は現在流通している製品、インクも市販品。未来から来たと証明するものは消印だけだった。
郵便局の担当者は、消印の日付を設定する機械に誤入力があった可能性を示した。奏は安堵した。超常的な答えより、検証できる間違いの方が受取人を守れる。しかし、その日に同じ局で処理された郵便物には異常がない。たった1通だけ、3年後の日付を選んでいる。
千佳は封筒を光へかざし、「中に写真がある」と言った。輪郭は2人分の人物に見える。奏は想像で母の姿を足さなかった。見たいものを先に決めると、手紙はそれに答えるように読めてしまう。
2人は開封条件を作った。郵便局の調査回答が届くこと、第三者の立会人がいること、奏がその日に読みたいと明言すること。条件を決める間、封筒は黙っていた。急かさない手紙は、それだけで少し信頼できた。
事務所には別の依頼人も来た。亡くなった祖父の封筒を、成人した孫へ届けたいという普通の依頼だった。奏は未来の消印に心を奪われず、本人確認と拒否権を説明した。謎があっても、日々の仕事を雑にしない。それが母から受け継いだ唯一確かな手順だ。
夕方、依頼人を見送ると、千佳が「3年後、私たちはどうなってるかな」と聞いた。奏は予想を並べなかった。「少なくとも、今日の夜食は決められる」。2人は冷蔵庫を確認し、残ったカレーでうどんを作った。
未来の封筒が部屋の奥にあっても、鍋は焦げないよう混ぜなければならない。奏はその普通さを、3年後の自分へもう一行書き足したくなった。だが封印は解かなかった。付箋に書き、箱の外へ貼った。
「未来へ言い忘れたことは、今日の誰かに話してもいい」。
千佳がそれを読み、うどんを2つに分けた。手紙が届くまでの時間にも、姉妹の生活は進んでいた。
閉店前、奏は未来の封筒の保管番号を台帳へ記した。備考欄には「不明」ではなく「未確認」と書いた。不明は答えがないように見えるが、未確認なら次の手順を選べる。千佳が横に小さく「夜食後」と加えた。奏は消さなかった。どれほど大きな謎でも、2人が生活を終えてから向き合う。その順番を、3年後まで守りたかった。
その日の記録には、解決したことと同じ大きさで、まだ分からないことも残された。封印した箱の底から、3年後の日付ですでに消印された別の封筒が見つかった。 それは今日の成果を打ち消す不安ではない。今日選んだ行動があったからこそ見えるようになった、次の問いだった。登場人物たちは答えを急がず、確かめるための時間と、もう一度会う約束を先に作った。
最後の手紙を、君が読む日
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このシリーズの全話 24編
- 第1話:声のない留守番電話
- 第2話:空の弁当箱
- 第3話:名前のない誕生日
- 第4話:青インクの消印
- 第5話:まだ早い手紙
- 第6話:好きな場所へ行きなさい
- 第7話:空席の指定席
- 第8話:母の声を知らない日
- 第9話:読まないでいた理由
- 第10話:頼みごとの封筒
- 第11話:同じ日付の依頼人
- 第12話:返事を持つ姉
- 第2部序章:3年後への配達
- 第2部第1話:先に届いた消印
- 第2部第2話:閉まる予定の事務所
- 第2部第3話:開く前の予約
- 第2部第4話:母が受け取った手紙
- 第2部第5話:第13箱の受取人
- 第2部第6話:十四番の空欄
- 第2部第7話:14年前の返送人
- 第2部第8話:亡き人への返事
- 第2部第9話:消えた第15箱
- 第2部第10話:頼みごとの封筒
- 第2部第11話:3年前の取消票

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