鍵は、会議室の扉の向こうではなく、澪の通学路に落ちていた。
それは金属ではなかった。小さな紙片だった。折りたたまれた紙の端に、藤井(ふじい)の仮名と、澪の筆跡が重なっている。
「約束は、覚えている人が2人いないと開きません」名札のない駅員は、踏切の反対側でそう言った。
澪は紙を開いた。そこには、子どもの字で「雨の日に迎えに行く」と書かれている。誰を迎えに行くのかは、削られていた。
藤井は隣で黙っていた。名前が仮のままだから、思い出すたびに輪郭が少し変わる。昨日より背が低く見え、声だけが妙に近い。
「私を忘れたのは、事故じゃないよ」藤井は言った。「澪が、忘れるって決めた」
その瞬間、踏切の警報音が鳴った。遮断機の向こうに、小学生の澪が立っている。傘を2本持ち、泣きそうな顔で誰かを待っていた。
澪は走ろうとした。けれど足元の白線に、編集会議の議事録が浮かぶ。「読者代表は、過去を救うために未来を消費してはならない」
意味はわからない。だが、進めば何かを失うことだけはわかった。
藤井が紙片を澪の手から取った。「鍵は、約束を守るためにあるんじゃない。破った場所を開けるためにある」
踏切が上がると、小学生の澪はいなかった。代わりに、ランドセルを背負った少年が立っていた。編集会議にいた少年だ。
少年は言った。「次は、君が忘れた名前を読む番だ」
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まだ名前のない神話
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