一日を、もう一度 第8話:父が録った何もない日

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日曜日の朝、朝倉灯(あさくら・あかり)は父の家へ卵を6つ持っていった。前の約束では「鯖ではなく卵を食べる」と決めただけで、料理までは決めていない。玄関を開けた修は、娘の手にある紙袋を見て、「6つもいらない」と言った。

「2つは今日。4つは今週」

「今週の献立まで決めるのか」

「決めない。腐らせないでね、という圧だけ置いていく」

修は笑い、台所へ戻った。大きな出来事は何も起きていない。灯はそのことに少し安心した。父の青いノートが10年前の自分につながってから、今日の食卓にも何か重要な答えが待っている気がしていたからだ。

テーブルの端には、小さな録音機が置かれていた。古いラジオのような形で、赤い録音ボタンだけが新しい。父が町内朝市の記録用に借りたものだという。灯が手を伸ばすと、修は「先に飯」と言った。

2人で作ったのは、形の崩れた卵焼きと味噌汁だった。修は砂糖を入れ、灯は入れない。どちらかへ合わせる代わりに、卵液を2つの器へ分けた。小さなフライパンを二度洗う手間が増えたが、食卓には甘い卵焼きと塩味の卵焼きが並んだ。

「家族なのに別々か」と修が言った。

「家族だから、同じ味のふりをしなくていいの」

修は甘い方を一切れ食べ、灯の塩味も一切れ取った。「こっちも悪くない」と言う。灯は勝った気にならないように、「そっちも一切れならおいしい」と返した。

食後、修は録音機を灯へ渡した。中には47分の音声が1本だけ入っている。題名は「何もない日」。録った日付は、灯が10年前の青いノートを受け取った翌日だった。

「何を録ったの」

「聞けば分かる」

「先に説明してくれてもいいでしょう」

「説明すると、説明されたものしか聞かなくなる」

その言い方は、1日記録士として依頼人へよく使う言葉だった。灯は少し悔しくなり、再生ボタンを押した。

最初に聞こえたのは、湯の沸く音だった。父が急須の蓋を落とし、「熱い」と小さく言う。テレビでは天気予報が流れ、午後から雨だと伝えている。次に冷蔵庫の扉が開き、しばらく閉まらない。修は独り言で、豆腐を買うか、納豆で済ませるか迷っていた。

灯は10分ほど聞いて、父の顔を見た。「本当に何も起きないね」

「題名どおりだ」

録音の中の修は、朝市の鈴木へ電話していた。用件は折り畳み椅子を一脚返すこと。だが電話を切る直前、「この前は助かった」と言いかけて、「この前のあれ、助かった」と言い直した。相手に何が助かったか伝わっているのか分からない。

灯はそこを巻き戻した。修は止めなかった。

「お父さん、ありがとうって言うとき、急に雑になるね」

「長く言うと照れる」

「相手には短くてもいいけど、自分の中まで省略しない方がいいよ」

修は返事をせず、空になった湯呑みに茶を足した。録音の中では、雨が降り始めた。窓へ当たる音が少しずつ増え、修は洗濯物を取り込むために走っている。息を切らしながら、「靴下、一個ない」と言った。

次の7分間は、片方の靴下を探す音だった。洗濯機の裏、ベランダの隅、新聞の下。結局、靴下は修のズボンの裾から出てきた。録音の修は1人で笑った。

灯も笑った。声を立てたあと、胸の奥に小さな痛みが残った。自分は父の笑い方を知っていると思っていた。しかし、誰もいない部屋で靴下を見つけたときの笑い方は知らなかった。

「これを、私に聞かせたかったの?」

「そういうわけでもない」

「じゃあ、何のため?」

修は録音機を指した。「最後まで聞け」

午後の録音には、近所の小学生が回覧板を持ってきた声が入っていた。修は玄関で受け取り、名前を呼び間違えた。すぐ謝り、もう一度名前を尋ねた。子どもは怒らず、「次は覚えてね」と言った。修は「次があるなら覚える」と答え、「次はあるよ」と直された。

灯はそのやり取りをメモしそうになり、手を止めた。今日は依頼ではない。父の1日を素材へ変えるために来たのではなかった。ペンを置くと、修が横目で見た。

「書かないのか」

「覚えていたいから書くこともある。でも、書くことで聞いた気になることもあるから」

録音は夕方へ進んだ。修は商店街へ豆腐を買いに行き、店主と天気の話をした。帰宅後、買ったはずの豆腐が袋にないことに気づく。店へ電話すると、会計台に置いたままだった。取りに戻るか迷い、納豆を食べることにした。

「そこで戻らないんだ」

「雨だったからな」

「豆腐屋さん、待ってたかもしれないよ」

「翌日取りに行った。向こうも忘れてた」

2人はまた笑った。劇的な再会も、長年の誤解の解消もない。忘れ物をした人と、預かったことを忘れた人が、翌日一緒に思い出しただけだ。

録音の終わり近くで、修は台所の椅子へ座り、長く黙っていた。時計の秒針と冷蔵庫の低い音だけが続く。灯は再生が止まったと思ったが、時間表示は進んでいる。

やがて修が言った。「灯は、人の大事な日を残す仕事をしている」

録音の中の声は、今隣にいる父より少し遠かった。

「でも、大事だったかどうかは、後で決まることもある。だから何もない日を一個、残しておく。お前が必要になったら聞けばいい。必要にならなければ、それでいい」

修はそこで一度咳をし、「遺言みたいだな」と自分で言った。「違う。元気な日の記録だ」と言い直した。

灯は再生を止めた。残りは2分あった。

「どうして今、これを渡したの」

「青いノートを返したから。昔の答えばかり渡すと、お前は昔をきれいにまとめるだろう。これはまとめられない日の方だ」

灯は、自分が父との普通の会話を思い出せない理由を、記憶の欠落だと思っていた。けれど本当は、会話を大事な出来事として扱わなかっただけかもしれない。忘れたのではなく、覚える対象へ入れていなかった。

「録音を仕事で使ってもいい?」

修はすぐ首を振った。「今日は駄目だ」

「ずっと駄目?」

「ずっとかどうかは、今度決める。今日は娘に聞かせた」

灯は断られたことに、少しほっとした。父の言葉を作品にすれば、誰かへ渡せる形になる。けれど渡せる形にしないまま、2人だけで持つ時間があっていい。

残り2分を再生すると、修は翌朝の予定を声に出していた。七時に起きる。ゴミを出す。豆腐を取りに行く。灯へ電話するかは、起きてから決める。

そして最後に、「電話しなくても、嫌いになったわけじゃない」と言った。

灯は父を見た。「これ、私に言うつもりだった?」

「独り言だ」

「録音機に向かって?」

「独り言にも相手がいる日がある」

昼前、灯は録音機を返した。複製はしなかった。その代わり、父へ許可を取り、自分のスマートフォンで今日の音を30秒だけ録った。食器を洗う水音、修が卵の残りを冷蔵庫へ入れる音、玄関で灯が「またね」と言い、修が「次の日曜」と返す声。

録音を止めたあと、灯は題名をつけた。「卵が4つ残った日」。修は「5つだ」と言った。冷蔵庫を確認すると、本当に5つある。2人は1つしか食べていなかった。

灯は題名を直さなかった。間違いも含めて今日だからだ。説明欄へ、「数え間違い。来週、1つ多く食べる」とだけ書いた。

玄関を出る前、灯はもう一度だけ父へ確認した。「録音を誰かに聞かせたことはある?」。修は質問の意図を聞き返さず、「ある」と答えた。ただし相手の名前は、その人の許可なしには言えないという。

灯は一瞬、自分のための録音を先に他人が聞いたことへ寂しさを覚えた。けれど録音は贈り物ではなく、父自身の1日でもある。娘だから最初に知る権利がある、と決めれば、父の普通の日をまた自分中心の物語へ変えてしまう。

「その人は、聞いてどうしたの」

「途中で止めた。何も起きないから、安心したって言った」

修によれば、その人は長いあいだ、電話が鳴るたび悪い知らせだと思って暮らしていた。湯が沸き、靴下が消え、豆腐を忘れるだけの47分を聞いて、世界には説明を求めない時間も流れていると知ったという。

灯はその話を作品にしたいと思った。しかし今度は、思いついた瞬間に父へ提案しなかった。録音を聞かせる範囲も、聞いた人が話してよい範囲も、感動した側が決めることではない。まず本人が続きを話したいか、父を通さず選べる方法を作る必要がある。

灯は名刺の裏へ、自分の連絡先ではなく事務所の相談窓口を書いた。「話したくなったら。話さないままでも、録音を消してほしくなったら」。修はそれを受け取り、次に会うとき本人へ渡すかどうか尋ねると言った。

「すぐ仕事にしなかったな」と修。

「今日は娘だから」

「明日は?」

「明日になってから決める」

修は満足そうにうなずいた。灯は、人生を丁寧に扱うとは、きれいな意味を急いで見つけることではなく、まだ意味にされたくない時間をそのまま置いておくことでもあると知った。

帰り道、灯は依頼人の記録帳とは別に、小さな自分用の欄を作った。毎日続けるとは決めない。大切にできなかった日を責める道具にもしない。ただ、今日ひとつだけ残す。

今日、父と卵焼きを食べた。味は別々だった。どちらも一切れずつ交換した。

その一行を書いたとき、灯は人生を大事にするとは、すべての日を忘れないことではないと思った。忘れる日があるから、思い出した今日に返事をする。次の約束を1つ置く。それで10分な日もある。

夕方、修から短い音声が届いた。冷蔵庫を開ける音のあと、「卵は4つだった。朝、一個ゆでたのを忘れてた」と言う。灯は笑い、「じゃあ題名は合ってたね」と返信した。

すぐに父から、「合ってたんじゃない。2人とも違う間違いをした」と返ってきた。

灯はその言葉も記録しなかった。画面を閉じ、夕飯の支度を始めた。今日を残すことと、今日を生きることの順番を、間違えないためだった。

夜、父の録音を思い返した灯は、1つだけ気づいた。最後の2分へ切り替わる直前、再生ボタンを押す音が二度入っていた。父は録音中ずっと1人だったはずなのに、誰かが一度止め、もう一度再生している。

その誰かも、「何もない日」を聞いたのだろうか。灯は父へ電話をかけず、次の日曜に尋ねることを予定表へ書いた。今夜の不安で、父の今日を奪わないために。

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一日を、もう一度

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このシリーズの全話 16編
  1. 第1話:待っていた朝ごはん
  2. 第2話:閉店前の5分間
  3. 第3話:父の店番
  4. 第4話:今日の話を聞く券
  5. 第5話:明日の私からの依頼
  6. 第6話:昨日の娘への葉書
  7. 第7話:10年前の私の忘れ物
  8. 第8話:父が録った何もない日
  9. 第9話:同じ録音を聞いた人
  10. 第10話:雨の日だけ空欄になる日記
  11. 第11話:誰にも見せない一頁
  12. 第12話:父が予約した木曜日
  13. 第13話:私が記録しなかった日
  14. 第14話:記録しない約束
  15. 第15話:私が頼んでいない記録
  16. 第16話:父が忘れなかった名前
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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