町内会長は、今日も逃げたい 第12話:18番目の仕事

戸田直人が会長の鍵束から名札を外すと、裏には油性ペンで「18」と書いてあった。表の「会長」は剥げかけているのに、裏の数字だけは妙に新しい。町内会の仕事を十七項目へ分けた辞任届を作った本人には、心当たりがなかった。

「十八番目は会長をやめる仕事かな」。直人が言うと、桜庭澄江は笑わなかった。前年度の書記で、規約の句読点まで覚えている人だ。彼女は名札を窓へかざし、「先に、それを誰が書いたか聞いてみよう」と言った。

防災倉庫Bの鍵は前日に外部保管へ移した。誰も受け取らない鍵が自動で会長へ戻る旧設定も止めた。それで一件落着のはずだったが、朝、倉庫の前には段ボール箱が三つ並んだ。中身は避難所で使う子ども用の折り畳み椅子。寄付した人の名前も、受領を決めた人の名前もない。箱の横に貼られた紙には「会長さん、よろしく」とだけ書かれていた。

直人は椅子を持ち上げかけ、手を引っ込めた。雨が降れば段ボールは濡れる。通路に置けば車椅子が通れない。だからといって自分が倉庫を開け、数を数え、置き場所を決めたら、鍵を返しても仕事だけが会長へ戻ってくる。

「よろしくは、誰の仕事ですかね」。陳浩然がパンの配達箱を自転車から下ろしながら言った。日本語の問題に聞こえたが、直人にはいちばん正確な質問だった。

直人は箱を倉庫へ入れず、まず雨除けの軒下へ移した。歩行者の邪魔にならない位置を鈴木保と確かめ、寄付の受領ではなく一時的な安全確保として時刻を記した。鈴木は箱を見て眉を上げた。「椅子は助かる。しかし畳んだ時に指を挟む型かもしれん」。受け取る前に安全を見る。会長を困らせるための反対ではなかった。

午後の十五分会議に、箱を置いた人は来なかった。代わりに高梨芽衣が一枚の地図を持ってきた。箱のあった場所は、通学路の狭い曲がり角と避難路の交点だ。芽衣は会議に居残らない約束なので、赤い丸を描いて五分で帰る。「椅子の話より、置く場所の話を先にして」。大人たちは誰も反論できなかった。

澄江は十七項目の引継ぎ表を机に広げた。防災備品の点検は八番、寄付の受領は十一番、通路の安全確認は十四番。箱はどれにも少しずつ触れるのに、一つへ収まらない。直人が丸を三つ結ぶと、誰かが「ほら、だから会長が必要」と言った。

その言葉を聞いた瞬間、直人は辞任届を書いた夜の疲れを思い出した。頼まれる前に全員の困り事を想像し、断る説明を考え、それでも結局引き受ける。あの夜、紙へ仕事を十七個書けたのは、何を手放していいか探していたからだった。だが十八番目が「分類できない仕事を全部拾う人」なら、何も変わっていない。

「誰が置いたか、調べる必要はありますか」と浩然が尋ねた。

鈴木は「ある」と答え、澄江は「まずはない」と答えた。鈴木は安全の責任を考え、澄江は寄付した人が責められて二度と助けを出さなくなることを恐れた。二人とも理由を持っていた。直人は多数決を始めず、箱の横の紙をもう一度見た。「会長さん」の「さん」の下に、薄い鉛筆の跡がある。「みんなで」と書かれ、消されていた。

寄付者が最初から丸投げしたとは限らない。共同で受け取る入口を見つけられず、最後に一人の役職へ宛てたのかもしれない。直人はそう推測したが、推測を事実の欄へ書かなかった。箱を開ける許可もまだない。

会議を終えるころ、澄江が古い規約の付則を持ってきた。役員名簿を白紙にしてよい、という文言ではない。役職に人を先に割り当てず、仕事が発生した時だけ期間と必要人数を決める「試行」の条項だった。三十年前の水害の後、誰か一人へ夜間対応が集中したために作られたという。澄江は毎年その条項を読み上げなかった。

「隠していたんですか」。直人の声は思ったより硬くなった。

「使えるとは思えなかった」。澄江は言った。「ここにいる全員が、名簿に名前がないと誰も動かないって信じていたから。私もそうだった」。彼女は直人の辞任届を選出会議まで持ってきた理由を、初めて話した。十七項目の表を見た時、付則を動かすための仕事の単位が揃ったと思ったのだ。しかし希望を言えば直人を改革の責任者へ縛る。だから言い出せず、鍵も名簿も古いままにした。

直人は責める言葉を飲み込まなかった。「先に教えてほしかったです」。澄江はうなずいた。「そうだね」。二人の間に、きれいな和解はまだなかった。けれどこれからは、付則を澄江だけが読める紙にしないと決められる。

実験は箱三つから始めた。鈴木が椅子の安全を確かめる。浩然が寄付者へ「受け取りたいが、確認してから返事をする」と伝える案内を、やさしい言葉で作る。芽衣の地図で置き場所を選ぶ。直人はそれぞれの予定が合うかだけを調整し、誰も手を挙げない場合は会長が引き取らず、寄付者へ保留を返す。段ボールは一晩だけ軒下で預かり、翌日には結論を出す。

最初の担当募集は、笑えるほど静かだった。紙の右端に「途中でやめられます」と書くと、年配の男性が「途中でやめる人を最初から募集するのか」と読んだ。直人は説明しようとして、紙の文字が小さすぎることに気づいた。浩然が太いペンで「一回だけ手伝う」と書き直す。澄江は「やめる」の隣へ「引継ぎは二行でよい」と足した。鈴木は安全点検に必要な十分だけ丸をつけた。立派な委員会はできなかったが、十分の担当は決まった。

一方、倉庫の前を毎朝掃いている木村さんは名簿へ名前を書かなかった。彼女は高齢の母を介護し、予定を約束できない。それでも雨の日に箱が通路へ出ていないかは見ると言った。直人は「見守り担当」と書きかけてやめた。頼んでいない日にも気にする義務が生まれる。木村さんは「見かけたら教える。見かけなくても怒らないで」と笑った。直人は報告を受ける番号だけ渡した。役割にならない協力を、役割へ変換しないことも、試行の大切な部分だった。

その夜、直人は十七項目の表を妻に見せた。妻は防災倉庫の行を読み、「あなたが家でやっていることも、同じだね」と言った。洗剤が切れる前に買う、親戚の集まりに返事をする、使わない傘を処分する。どれも自分で選んでいるつもりだったが、家族が困る前に気づく担当を勝手に引き受けていた。直人は町内会の改革を家で自慢する代わりに、翌朝の弁当を誰が作るかではなく、明日は弁当が要るのかから聞いた。妻は「要らない。外で食べる」と答えた。直人は久しぶりに、何もしない朝の予定を手帳へ書いた。

鈴木が椅子を一脚開くと、座面の端に小さな修理札が縫いつけてあった。学校の体育館で使ったものらしい。札には製造年ではなく、最後に直した日が書かれている。鈴木はしゃがんで蝶番を押し、「これは、誰かが大切に使ってきたやつだ」と言った。欠点を探すために調べていた顔が、少し変わった。

浩然の店へ寄付者から電話が来た。近くの学童クラブの職員だった。クラブが移転し、まだ使える椅子を捨てたくなかった。町内会に寄付してよいか相談したかったが、ホームページには会長の連絡先しかなく、夜に電話をするのは悪いと思ったという。朝早く箱を置いたのは、誰も見ていないうちに押しつけたかったからではない。仕事へ行く前の、それしか空いていない十分だった。

「紙の『みんなで』は、あなたが?」浩然が聞くと、職員は笑った。「最初はそう書いたんです。でも、誰に届くのか分からなくて」。推測の一部は当たっていた。一部は外れた。直人は間違った部分も会議の控えに残した。話を聞く前に寄付を拒否していたら、安全だけ守って、クラブとの関係を切っていたかもしれない。

翌日、椅子は二脚だけ倉庫へ入った。残る一脚は蝶番の修理が必要で、町内会には修理できる人も費用もない。澄江が「これくらい私が」と言いかけると、直人は遮らず最後まで聞いた。彼女は自分で続けた。「……やっぱり、私の仕事じゃないね」。一脚はクラブへ返し、修理後にもう一度相談してもらう。寄付を丸ごと受け取らなかったことを、誰も失敗とは呼ばなかった。

受領票には鈴木と浩然の名前が並んだ。鈴木は安全確認、浩然は寄付者との連絡。直人の名前は調整した人として小さく残る。澄江は「会長の印がないと会計が受け付けない」と言い、また二人で規約を開いた。必要だったのは役職者の印ではなく、受領を判断した二人の確認だった。毎年「会長印」と呼んでいた欄の正式名は「確認者印」。書式を読まずに続いた習慣が、一人へ仕事を戻していた。鈴木は自分の印を押す時、「俺も覚え違いをしていた」と言った。澄江がそれを議事録へ書こうとすると、「大きく書かなくていい」と笑った。

十八番目の仕事は、結局名札に書かれた誰かの名前ではなかった。仕事が十七の箱からこぼれた時、まず必要かを問い、必要なら一時的な担当を募り、担い手がいなければ無理に実行しない。その手順を開く仕事だ。直人は「会長が最後に全部受ける」という行を、引継ぎ表の余白から消した。代わりに「受け手なしを記録し、期限を決めて返す」と書いた。

帰り際、澄江は名札の裏の数字を見せた。油性ペンの横に、ごく小さく「S」の字がある。自分が書いたと認めた。「付則を使う十八番目の仕事を、いつか誰かが見つけるかと思って」。直人は呆れた。「謎解きにしないでくださいよ。僕、辞めるために来たんですから」

「辞める前に見つけたでしょ」と澄江が返す。

直人は名札を彼女へ渡さなかった。机の真ん中に置いた。次の総会で誰か一人へ掛け直すためではない。名札の表には、まだ会長と書いてある。裏の十八番目を手順に変えた今、表の文字を残す理由があるのか。総会の案内状を刷ろうとすると、印刷機が「次期会長名を入力してください」と止まった。直人は空欄のまま送信を押す。画面には、差出人不明の出席届が一通だけ表示された。「町内会をやめたい人の会、代表」。次の議題を持ってくるのは、役員になりたい人ではなかった。

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町内会長は、今日も逃げたい

12 / 14

このシリーズの全話 14編
  1. 第1話:回覧板に辞任届を挟んだ
  2. 第2話:午前6時の防災放送
  3. 第3話:会議は15分で逃げ切れる
  4. 第4話:判子を持っていない副会長
  5. 第5話:夏祭りを一度やめてみる
  6. 第6話:空き家の郵便受け
  7. 第7話:犬の名前で呼ばれる人
  8. 第8話:管理者のいない防災倉庫
  9. 第9話:会長職廃止の付則
  10. 第10話:持ち主のいない3万円
  11. 第11話:鍵を持たない会長
  12. 第12話:18番目の仕事
  13. 第13話:町内会をやめたい人の会
  14. 最終話:会長のいない総会
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  2. 第2話:午前6時の防災放送
  3. 第3話:会議は15分で逃げ切れる
  4. 第4話:判子を持っていない副会長
  5. 第5話:夏祭りを一度やめてみる
  6. 第6話:空き家の郵便受け
  7. 第7話:犬の名前で呼ばれる人
  8. 第8話:管理者のいない防災倉庫
  9. 第9話:会長職廃止の付則
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  4. 第4話:判子を持っていない副会長
  5. 第5話:夏祭りを一度やめてみる
  6. 第6話:空き家の郵便受け
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  8. 第8話:管理者のいない防災倉庫
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  13. 第13話:町内会をやめたい人の会
  14. 最終話:会長のいない総会
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  5. 第5話:夏祭りを一度やめてみる
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  9. 第9話:会長職廃止の付則
  10. 第10話:持ち主のいない3万円
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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