町内会長は、今日も逃げたい 第13話:町内会をやめたい人の会

出席届の差出人欄には「町内会をやめたい人の会」とだけあった。戸田直人は印刷機の前で三度読み返し、会長職を辞めたい自分のために誰かが応援団を作ったのかと一瞬期待した。連絡先の欄には携帯番号ではなく、商店街の喫茶店で毎週木曜日に使う奥の席、と書かれている。桜庭澄江は「行けば会えるという意味ね」と言った。直人は「行かなくても総会で会えます」と答えたが、木曜日の午後にはその喫茶店へ向かっていた。

奥の席には三人いた。通学路沿いの家で介護をしている木村美佐、夜勤のある配送員の井上、そして町内会の加入案内を一度も受け取っていない賃貸住まいの大学生、南だった。直人は議長のように立つのをやめ、空いた椅子に座る。「やめたい人は、誰ですか」。三人は互いの顔を見た。美佐が「この会にいる全員、少しずつ」と答えた。

井上は町内会費を払うのをやめたい。防災倉庫の鍵を持たされ、夜勤明けに避難訓練へ出なければ「協力が足りない」と言われるのもやめたい。しかし水害の日に、どこが通れるかを知らせ合う仕組みはなくしたくない。美佐は清掃当番をやめたい。母の通院と重なる週に代わりを探す電話を何本もかけるのが、清掃よりつらい。それでも段差で転ぶ人を見かければ知らせる。南は、入っていないはずの会のゴミ出し説明が生活に必要だと言った。

直人は三人の話を一枚の「賛成・反対」票へまとめかけ、手を止めた。今までの総会なら「町内会の継続に賛成か」と聞いただろう。井上は防災に賛成で義務に反対、美佐は連絡の窓口に賛成で当番に反対、南は情報の受け取りに賛成で会員という札には保留だ。三人の答えは矛盾しない。設問が粗いだけだ。直人はノートに「何を残すか」「誰が負担するか」「参加しないと何を失うか」と分けた。

「また表を作ってる」と澄江が茶化す。彼女もついて来ていた。直人は「表なら逃げられますから」と返す。昔は表を作って面倒から逃げようとした。今は、誰かへ丸ごと仕事を押し返さないために使う。澄江はその違いを口にせず、三人へ総会の案内が届いたか尋ねた。美佐と井上には届いた。南には届かない。会員名簿に名前がないからだ。議題の影響を受ける人ほど、入口で止まることがある。

澄江は規約を出した。議決権は会費を納める世帯に限る。ただし、議題に関係する住民の意見を聞くことは禁止していない。直人は「発言できる」と案内に書こうとしたが、南が「意見を聞いて終わりなら、飾りです」と言う。もっともだった。直人は総会の前半を説明と異議、後半を議決に分け、誰の意見が採用・保留・不採用になったかと理由を後日公開する案を作った。議決権の違いを隠さず、発言を儀式にもしないためだ。

会計を調べると、井上が嫌う会費から防災備品だけでなく、年に一度の大きな懇親会の印刷代も出ていた。懇親会へ行かない世帯にも請求する額は同じ。直人は懇親会をやめようと言いかける。美佐が止めた。「うちの母はそれだけ外へ出られる」。彼女は毎年、母の車椅子を押して短い時間だけ参加する。削れば負担は減るが、孤立する人もいる。だから会費の用途を分けるだけでなく、懇親会をどんな規模なら続けられるか聞かなければならない。

翌日、直人は鈴木保に会った。防災部長の鈴木は「会費を任意にしたら倉庫が空になる」と顔をしかめる。直人は反論せず、倉庫の今年の支出を見せた。備蓄水、期限切れの交換、鍵の外部保管、そして訓練のために無償で人が費やした時間。最後の欄には金額がない。鈴木は「それまで金で数えるのか」と言う。「数えなかったせいで井上さんは休めない」と直人は返した。鈴木は紙を引き寄せ、夜勤明けの人へ同じ訓練時間を求めたのは自分だと認めた。

二人で作った案は、防災の必要機能だけを残すものだった。倉庫の点検は有償の短時間作業にできるか見積もりを取る。避難路の情報は高梨芽衣の地図研究部と市の公開データを照らし、個人の朝六時放送へ依存しない。訓練は年一回の一斉参加だけでなく、別の日に十分の説明を受けられる。鈴木は最初、「それなら訓練ではない」と言った。芽衣に危険箇所を三つ指摘されると、「十分で三つ覚えるなら、俺の一時間より役に立つかもな」と考え直した。

芽衣は大人の長い会議に出ない条件を崩さなかった。放課後の五分だけ、総会資料の避難路図を見た。通れない道がまだ青く塗られている。直人は「当日修正します」と言い、芽衣にペンを渡した。彼女は受け取らない。「私が毎回直す担当になるなら、図を渡さない」。直人ははっとした。学校の活動を、町内会の無償の仕事へ横流ししかけていた。市の更新日を資料へ明記し、疑義の報告窓口を二人以上に分ける。芽衣は「私が見つけたときだけ知らせる」と言った。

陳浩然のパン屋には、「やめたい人の会」の噂が届いていた。年配の客は町内会がなくなると思って心配し、若い客は会費がなくなると思って喜んだ。どちらもまだ決まっていない。浩然は店頭に三つの紙を貼った。「いま決まっていること」「これから選ぶこと」「参加しなくても届く情報」。直人が案内文を三段落で書くと、浩然は半分に削る。「会費を払わない人に情報を届けないなら、防災情報として意味がないでしょう」。一番大事な一行を、専門用語に埋めない。

総会当日、出席届の「町内会をやめたい人の会」は四人になっていた。四人目は澄江だった。直人は書記の席にいる彼女を見て、「どっち側ですか」と聞く。「役員をやめたい側」と澄江は答えた。規約を誰より読める人が、規約を読み上げ続ける唯一の人でもあった。三十年前の試行付則を温存していた責任を、直人だけに改革させることで消したくない。彼女は出席届へ自分の名を書いた。

会議室の前列には、例年の役員名簿が伏せて置かれた。最後に次期会長を推薦する欄がある。直人はその紙を先に回さなかった。代わりに、防災、見守り、行事、連絡、清掃の五つの機能を別々の紙にして壁へ貼った。必要性、期限、費用、担い手がいない場合の停止条件をそれぞれ書いている。字が多すぎると井上が言い、直人は笑って太いペンに替えた。十七項目の表を作った男が、初めて表を削るために人前へ立っていた。

最初の異議は会費だった。井上は倉庫の水を買う費用なら払う。しかし参加できない訓練の印刷代まで負担させ、欠席者として名を読み上げるのはやめてほしい。鈴木は立ち上がり、「俺が読んだ」と認めた。「無事を確認するつもりだったが、責める名簿になっていた」。謝っただけでは終わらない。欠席者一覧を廃し、安否確認の連絡先は本人が選ぶ。訓練は参加記録を取らず、設備の点検結果だけを残す案を鈴木自身が出した。

次に美佐が清掃当番を話した。草刈りは安全上必要だが、毎週全世帯が同じ時間に集まる必要はない。市道部分は市へ申請し、私道部分は所有者の確認が要る。境界が分からない場所は「誰かがやる」ではなく調査中とする。美佐は母の通院日を資料に書かれるのを断った。参加できない理由を証明しなければ免除されない制度なら、理由を話せない人は残ってしまう。直人は「参加しない」に理由欄を作らないとその場で決めた。

南は傍聴席から手を上げた。「会員じゃない僕が、ゴミ出しの変更をどう知るんですか」。会場が静かになる。会費を払う世帯だけの回覧板は、必要な生活情報の配達手段でもあった。澄江は、市の掲示板と商店街の店頭、希望者へ配る短い紙を組み合わせる案を示した。紙の印刷費を会費から出すことに一人が反対した。南は「なら自分で払う」と言いかける。直人はそれを止めた。生活情報は取引にしてはいけない。印刷費がいくらかを先に見せ、総会で選んでもらう。

印刷費は月に八百四十円だった。倉庫の使わなくなった鍵の複製費より安い。数字が出ると、反対した人も「先に言って」と苦笑した。直人はここで勝ち誇れない。費用を調べず理念だけ話したら、相手に無制限の負担を想像させていた。総会は非会員への配布を試行として可決し、三か月後に配布数と届かなかった場所を確認すると決めた。南は投票していない。それでも、自分の質問が決定文の一行を変えたことを確かめた。

懇親会は残すことになった。ただし昨年の規模ではない。美佐の母が車椅子で入れる場所と短い時間を優先し、飲食を用意する人を固定しない。参加者が少なければ喫茶店の奥の席でお茶を飲むだけでもよい。浩然はパンを差し入れると言ったが、直人は「店の仕事なら代金を払います」と答えた。浩然は「やっと覚えた」と笑う。町内会をやめたい人の会が、町の一部を残したい人の会にも見えた。

議決の前に澄江が試行付則を全文読んだ。役職を先に埋めず、機能ごとに短い担当を置ける。ただし任期の終わりと記録の引継ぎ先を明記すること。直人が見落としていた後半だ。誰も担当しないときの停止だけ決めても、終わった仕事の記録が宙に浮く。澄江は「去年まで私の机に全部ありました」と言い、鍵、地図、会計、議事の保管先をそれぞれ示した。自分がいなくなると途切れる仕組みを、彼女自身が公開した。

会長職を廃止する案は、この日には採決されなかった。試行付則で三十日間、五つの機能が本当に回るかを確かめる必要があるからだ。直人は落胆しかけた。会長を辞められる日が延びたように見える。しかし期限のない引き受けとは違う。三十日後の臨時総会の日付、失敗した機能を戻す条件、誰も候補に立たない場合の扱いを議事録に書いた。会長職を残すか消すかも、その実績で選ぶ。

井上は「今日はやめられなかった」と言った。直人は「義務は一つ減りました」と答えた。井上は苦笑いした。「そういう売り方はしないでください」。自分の暮らしの重さを、会長の改革の成果として数えられたくない。直人は謝り、議事録を直した。「井上さんの要望により、欠席者名簿を廃止」。誰が決めたかを、直人の名前で上書きしない。

会議が終わると、直人は前列の役員名簿を開いた。次期会長名は空欄のまま。代わりに裏面には、今日決まった五つの試行の期限がある。澄江が「まだ逃げられないね」と言う。「逃げ道が書いてあるなら、しばらくいられます」と直人は返した。会長の名札は机に置いたまま、二人で椅子を片づけた。片づけ当番の募集表はない。今日は自分たちが、自分で選んで残っただけだった。

外へ出ると、美佐の母が車椅子で待っていた。会議には入らず、娘が迎えに来るのを待っていたという。直人は先ほどの懇親会案を説明しかけ、美佐に止められた。「母へは私が聞く」。来たいかどうかを娘ではなく本人に選んでもらうためだ。母は少し考え、「長い会議じゃないなら」と笑った。直人は会議を短くする約束なら得意だと思ったが、今は口にしなかった。

翌朝、総会の決定文を配ろうとした直人の端末に、試行担当の一人から辞退の連絡が届いた。防災の地図を更新する担当だった。「引き継げると聞いたのに、前任者の原本がありません」。鈴木の机にも、澄江の箱にもない。芽衣の地図をそのまま正式版へすれば早い。しかし本人は大人の仕事を引き受けないと明言している。直人は配布ボタンを止めた。会長がいない総会へ進む前に、会長以外へ渡せる原本が本当に存在するのか、確かめなければならない。

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町内会長は、今日も逃げたい

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このシリーズの全話 14編
  1. 第1話:回覧板に辞任届を挟んだ
  2. 第2話:午前6時の防災放送
  3. 第3話:会議は15分で逃げ切れる
  4. 第4話:判子を持っていない副会長
  5. 第5話:夏祭りを一度やめてみる
  6. 第6話:空き家の郵便受け
  7. 第7話:犬の名前で呼ばれる人
  8. 第8話:管理者のいない防災倉庫
  9. 第9話:会長職廃止の付則
  10. 第10話:持ち主のいない3万円
  11. 第11話:鍵を持たない会長
  12. 第12話:18番目の仕事
  13. 第13話:町内会をやめたい人の会
  14. 最終話:会長のいない総会
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  1. 第1話:回覧板に辞任届を挟んだ
  2. 第2話:午前6時の防災放送
  3. 第3話:会議は15分で逃げ切れる
  4. 第4話:判子を持っていない副会長
  5. 第5話:夏祭りを一度やめてみる
  6. 第6話:空き家の郵便受け
  7. 第7話:犬の名前で呼ばれる人
  8. 第8話:管理者のいない防災倉庫
  9. 第9話:会長職廃止の付則
  10. 第10話:持ち主のいない3万円
  11. 第11話:鍵を持たない会長
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  14. 最終話:会長のいない総会
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  2. 第2話:午前6時の防災放送
  3. 第3話:会議は15分で逃げ切れる
  4. 第4話:判子を持っていない副会長
  5. 第5話:夏祭りを一度やめてみる
  6. 第6話:空き家の郵便受け
  7. 第7話:犬の名前で呼ばれる人
  8. 第8話:管理者のいない防災倉庫
  9. 第9話:会長職廃止の付則
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  13. 第13話:町内会をやめたい人の会
  14. 最終話:会長のいない総会
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  3. 第3話:会議は15分で逃げ切れる
  4. 第4話:判子を持っていない副会長
  5. 第5話:夏祭りを一度やめてみる
  6. 第6話:空き家の郵便受け
  7. 第7話:犬の名前で呼ばれる人
  8. 第8話:管理者のいない防災倉庫
  9. 第9話:会長職廃止の付則
  10. 第10話:持ち主のいない3万円
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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