水曜日の海は、海の近くにはなかった。
駅から10分歩いた雑居ビルの2階。看板は小さく、青い塗料がところどころ剥げている。扉の横には、古い黒板がかかっていた。
本日、貸切ではありません。
わざわざそんなことを書く店を、私は他に知らない。
律は黒板を見て、低く笑った。
「貸切だった日があるんだろうな」
「覚えてるの」
「俺は、店の中までは覚えてる」
「その言い方、嫌」
「俺も嫌だよ」
律は扉を開けなかった。
私のほうを見て、少しだけ迷った顔をした。
「責めるために来たんじゃない」
「わかってる」
「わかってない顔してる」
それは、昔の律の言い方だった。
私が平気なふりをすると、律はいつもそう言った。平気じゃないくせに、という意味ではない。平気なふりをするなら、せめて俺の前では雑にするな、という意味だった。
その優しさが、今さら痛かった。
店内は暗すぎず、明るすぎなかった。壁には海の写真が何枚も飾られている。どれも水曜日に撮られたものだと、小さな札に書いてあった。
カウンターの奥から、白髪の店主が顔を出した。
「4人で来た子たちだね」
私も律も、同時に息を止めた。
店主は、まるで昨日の予約を確認するように続けた。
「1人はよく笑って、1人はずっと謝って、1人は写真を撮って、1人は帰りたがってた」
「誰が、どれですか」
私が聞くと、店主は困ったように眉を下げた。
「そこまでは、覚えないことにしてる」
律がカウンターに写真を置いた。
第2話で届いた、あの写真。
灯里(あかり)が笑っている。周がその横にいる。律の手がグラスに触れている。そして、グラスの反射に、私の手が映っている。
店主は写真を見て、短く息を吐いた。
「ああ。水槽の席だ」
奥の席へ案内された。
そこには、水槽などなかった。
ただ、壁一面の鏡があり、向かいのテーブルを何重にも映していた。
水の中にいるように見えるから、水槽の席。
写真の反射は、グラスだけではなかった。
壁の鏡にも、撮影者が映っているはずだった。
律が店主に尋ねた。
「防犯カメラは」
店主は首を振った。
「ないよ。ここは、忘れたいことを話す人が多いから」
忘れたいこと。
その言葉に、胸の奥が冷えた。
私たちは水槽の席に座った。
律は写真を机に置き、私の前に向けた。
「この日、俺は君と別れたあとだった」
「うん」
「灯里から呼ばれた。会ってほしい人がいるって」
「それが周さん」
「違う」
律は私を見た。
「君だ」
私は何も言えなかった。
灯里は、私と律を会わせようとしていた。
なのに写真には、灯里と周もいる。
どうして。
そのとき、店の扉が開いた。
柏木周(かしわぎ・しゅう)だった。
私を見ても驚かなかった。
律を見ても、驚かなかった。
彼は私たちのテーブルへ来て、静かに言った。
「ここに来ると思っていました」
律が立ち上がりかけた。
私は手で止めた。
「あの日のことを思い出さないでくださいって、言いましたよね」
私の声は、自分でも驚くほど乾いていた。
周はうなずいた。
「はい」
「それは、私のためですか。灯里のためですか。あなたのためですか」
周は答えなかった。
代わりに、鞄から1枚の封筒を出した。
封筒には、灯里の字でこう書かれていた。
水曜日の海で、私が笑っていた理由。
周はそれを私に渡さなかった。
テーブルの中央に置いただけだった。
「灯里さんは、あなたに読んでほしいとは言っていません」
「じゃあ、誰に」
周の視線が、律へ動いた。
律の顔から、血の気が引いた。
「俺?」
周は小さく首を振った。
「四人目の恋人に」
店内の空気が止まった。
私は、その言葉を聞いた瞬間、自分がこの店に来たことがあるとわかった。
記憶ではない。
体が覚えていた。
この席で、私は誰かに言った。
好きだった、と。
けれど、その相手の顔だけが抜け落ちている。
封筒の端に、小さな水染みがあった。
海のない店に、海の跡だけが残っていた。
四人目の恋人
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