四人目の恋人 第3話:水曜日の海

水曜日の海は、海の近くにはなかった。

駅から10分歩いた雑居ビルの2階。看板は小さく、青い塗料がところどころ剥げている。扉の横には、古い黒板がかかっていた。

本日、貸切ではありません。

わざわざそんなことを書く店を、私は他に知らない。

律は黒板を見て、低く笑った。

「貸切だった日があるんだろうな」

「覚えてるの」

「俺は、店の中までは覚えてる」

「その言い方、嫌」

「俺も嫌だよ」

律は扉を開けなかった。

私のほうを見て、少しだけ迷った顔をした。

「責めるために来たんじゃない」

「わかってる」

「わかってない顔してる」

それは、昔の律の言い方だった。

私が平気なふりをすると、律はいつもそう言った。平気じゃないくせに、という意味ではない。平気なふりをするなら、せめて俺の前では雑にするな、という意味だった。

その優しさが、今さら痛かった。

店内は暗すぎず、明るすぎなかった。壁には海の写真が何枚も飾られている。どれも水曜日に撮られたものだと、小さな札に書いてあった。

カウンターの奥から、白髪の店主が顔を出した。

「4人で来た子たちだね」

私も律も、同時に息を止めた。

店主は、まるで昨日の予約を確認するように続けた。

「1人はよく笑って、1人はずっと謝って、1人は写真を撮って、1人は帰りたがってた」

「誰が、どれですか」

私が聞くと、店主は困ったように眉を下げた。

「そこまでは、覚えないことにしてる」

律がカウンターに写真を置いた。

第2話で届いた、あの写真。

灯里(あかり)が笑っている。周がその横にいる。律の手がグラスに触れている。そして、グラスの反射に、私の手が映っている。

店主は写真を見て、短く息を吐いた。

「ああ。水槽の席だ」

奥の席へ案内された。

そこには、水槽などなかった。

ただ、壁一面の鏡があり、向かいのテーブルを何重にも映していた。

水の中にいるように見えるから、水槽の席。

写真の反射は、グラスだけではなかった。

壁の鏡にも、撮影者が映っているはずだった。

律が店主に尋ねた。

「防犯カメラは」

店主は首を振った。

「ないよ。ここは、忘れたいことを話す人が多いから」

忘れたいこと。

その言葉に、胸の奥が冷えた。

私たちは水槽の席に座った。

律は写真を机に置き、私の前に向けた。

「この日、俺は君と別れたあとだった」

「うん」

「灯里から呼ばれた。会ってほしい人がいるって」

「それが周さん」

「違う」

律は私を見た。

「君だ」

私は何も言えなかった。

灯里は、私と律を会わせようとしていた。

なのに写真には、灯里と周もいる。

どうして。

そのとき、店の扉が開いた。

柏木周(かしわぎ・しゅう)だった。

私を見ても驚かなかった。

律を見ても、驚かなかった。

彼は私たちのテーブルへ来て、静かに言った。

「ここに来ると思っていました」

律が立ち上がりかけた。

私は手で止めた。

「あの日のことを思い出さないでくださいって、言いましたよね」

私の声は、自分でも驚くほど乾いていた。

周はうなずいた。

「はい」

「それは、私のためですか。灯里のためですか。あなたのためですか」

周は答えなかった。

代わりに、鞄から1枚の封筒を出した。

封筒には、灯里の字でこう書かれていた。

水曜日の海で、私が笑っていた理由。

周はそれを私に渡さなかった。

テーブルの中央に置いただけだった。

「灯里さんは、あなたに読んでほしいとは言っていません」

「じゃあ、誰に」

周の視線が、律へ動いた。

律の顔から、血の気が引いた。

「俺?」

周は小さく首を振った。

「四人目の恋人に」

店内の空気が止まった。

私は、その言葉を聞いた瞬間、自分がこの店に来たことがあるとわかった。

記憶ではない。

体が覚えていた。

この席で、私は誰かに言った。

好きだった、と。

けれど、その相手の顔だけが抜け落ちている。

封筒の端に、小さな水染みがあった。

海のない店に、海の跡だけが残っていた。

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四人目の恋人

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このシリーズの全話 16編
  1. 第1話:招待状は3通届いた
  2. 第2話:写真の中で笑っていた人
  3. 第3話:水曜日の海
  4. 第4話:笑っていた人を信じないで
  5. 第5話:親友だった人
  6. 第6話:来ないで、止めに来て
  7. 第7話:式場に先にいた人
  8. 第8話:祝辞を書いた人
  9. 第9話:花嫁のいない控室
  10. 第10話:誰も選ばなかった指輪
  11. 第11話:灯里が帰る場所
  12. 第12話:5人目への招待状
  13. 第13話:4人目ではなかった人
  14. 第14話:翌日の集合写真
  15. 第15話:シャッターを押した人
  16. 最終話:母に届かなかった写真
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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