一日を、もう一度 第25話:二人目の職員

朝、灯は父の家へ寄る前に、茶筒の蓋を思い出した。分からない日付があっても茶は飲める、と修は言った。仕事では空欄を見つけると、誰かの名前で埋めたくなる。昨夜手帳へ書いたのは、建物番号、連絡済の意味、凍結期限の三つだけだった。灯は自分の名前が載る十年前の受領票を机の奥へ入れ、まず別棟の入退室記録を開いた。

薄紙には十一時五十分、灯と二人目の職員番号が並んでいる。当番表ではもう一人は東棟にいた。二つの建物の間は徒歩で九分。鍵の記録を見れば、東棟の人が窓口へ来たかどうかを確かめられる。美和はすでに照会票を用意していたが、氏名欄を伏せてある。「番号だけで足りるなら、それで」と言う。灯は頷き、原本の持ち主の氏名も開かずに、記録の発生場所だけを依頼した。

返ってきた入退室の一覧は、単純な答えをくれなかった。二人目の番号は十一時四十二分に東棟から退室し、十一時四十八分に西棟の裏口へ入っていた。距離だけなら急げば可能だ。だが裏口の端末は三か月前に置き換えられ、古い一覧は新しい画面へ変換されている。「入室」という文字も、当時は「扉の解錠」を意味しただけかもしれない。塩見は紙に「本人が室内にいた」と書きかけ、横線を引いた。

灯は窓口の地図を机に広げた。西棟の裏口から受領机までは廊下を二つ曲がる。十一時五十分にそこへ立てるかどうかは、足の速さだけでは分からない。十年前の防火扉は昼前に点検され、通れない時間があった。美和が設備の点検簿を探しに行く。灯は自分がその日どこにいたか思い出そうとしたが、記憶を証拠にするのはやめた。覚えていないという事実だけを、自分の欄へ書いた。

法務担当の小川から電話が入った。枝番二の記録を破棄するかどうか、凍結期限が今日の正午に再審査される。旧版の規程では保管開始の翌日から数え、新版では当日から数える。どちらを当時の処理に適用したか不明なまま、早い方へ合わせるのは不可逆だ。灯はもう一日だけ凍結を延ばす理由を、二人目の職員の疑いに置かなかった。規程の適用版と本人への選択肢の告知が未確認だから、と書いた。

「職員の番号が見つかったから、本人へ連絡したことにできませんか」と小川が問う。急いでいるのは、十年前の紙を抱える保管庫の方だ。灯は「連絡済の対象がまだ分かりません」と答えた。職員同士の連絡か、設備点検の連絡か、本人への連絡か。同じ二文字で結論を先取りすると、保留した意味が消える。小川は黙り、正午までの仮決定として破棄停止を了承した。

美和が戻り、防火扉の点検簿を示した。十一時四十六分から五十五分まで、西棟の裏口と受領机の間は通行止めだった。東棟の職員が裏口の鍵を開けたとしても、受領机には来られない。塩見は「なら番号の複写です」と言った。灯はすぐには頷かなかった。机へ来られない人が、電話や内線で処理を手伝うことはある。薄紙の二つの番号は、同席の記録ではないかもしれない。

保管室の古い手順書には、封印票を二人で確認する欄があった。一人は窓口で原本を扱い、もう一人は別の場所から、宛先を読まずに封印番号と保管期限だけを照合する。二人目は同じ机にいる必要がない。欄外の「連絡済」は、その確認が終わったことを示す定型印だ。灯の胸が少し軽くなった。誰かが本人へ無断で内容を伝えたという推測は、少なくとも紙だけからは成り立たない。

しかし、手順書には小さな例外もあった。二人目の照合が電話で終わった場合、通話先の内線番号を別の台帳へ残す。東棟の職員番号は薄紙にあるのに、対応する内線が見つからない。記録を紛失したのか、電話を使わず別の手段だったのか。美和は「きれいな説明ができたのに」と残念そうに言った。灯は「一つの疑いは消えました。残りは残りです」と返した。

昼前、紗良から灯の私用端末へ短い連絡が来た。律と朝食を食べた。今朝の律は昨日の約束を覚えていなかったが、今日の予定を自分で選び直したという。灯は喜んだが、その話を仕事の台帳へ転記しなかった。律が今日を選ぶことと、十年前の封印票を調べることを同じ物語にしてはいけない。紗良への返事は「教えてくれてありがとう。二人の朝を大事にして」とだけ書いた。

正午の審査で、小川は破棄停止を翌日の夕方まで延ばした。期間を無限にしないため、灯はその間に確認する作業を三つに絞った。適用版、内線台帳の所在、本人が内容を開かずに受取か破棄かを選べる一般告知。二人目の職員の氏名を知ることは条件に入れない。別の職員が同じ番号を使った可能性はゼロではないが、名前を見ても内線がどこへ繋がったかは分からない。

午後、古い内線台帳の所在が分かった。東棟の倉庫ではなく、廃止された交換室の保守会社が保管していた。会社は全件を一括で渡すと言う。そこには封印票と無関係な人の通話も含まれる。灯は受け取らなかった。照会するのは該当日、十一時四十六分から五十五分、封印確認用の内線だけ。相手先の番号も、まず部署種別だけでよいと求めた。狭く頼むほど答えは遅くなるが、他人の会話を調査のついでに覗かないための遅さだった。

塩見は別の線を追った。薄紙の裏にあった四角い押し跡は、当時の封印機の形と一致しない。修理票の束を照合すると、三か月後に交換された機械の部品番号と合う。つまり薄紙は十年前の処理時に原本へ挟まれたとは限らない。後から複写や再整理の際に重ねられた可能性がある。灯は背筋が冷たくなった。二人目の番号をめぐる調査の出発点そのものが、別の日付かもしれない。

美和は「だったら薄紙を外してしまえば」と言い、すぐに首を振った。外した履歴まで残さなければ、次の担当者はまた同じ紙を同時記録と読む。灯は原本と薄紙を別の透明袋へ入れ、発見位置、押し跡、推定できない作成時刻を記した。疑いを消すために紙を捨てるのではない。紙が何を証明しないかまで、次へ渡すためだ。

そのとき保守会社から返答が届いた。該当する内線の発信記録は一件。宛先の部署種別は「本人連絡窓口」ではなく、「封印保管室」。十一時五十一分、通話は二十二秒で切れている。二人目の職員は受領机へ来ず、遠隔から封印番号を読み合わせた可能性が高い。だが番号を誰が口にしたかは通話記録にない。灯は「連絡済」の矢印が、原本の持ち主へ向いていないと分かったことを美和に伝えた。

小川はその結果を聞き、「本人へ連絡していないなら、一般告知を急ぎましょう」と言った。灯は同意しかけ、言葉を止めた。本人へ連絡していないことも、まだ確定ではない。確認した内線は職員間のものだが、別の経路があったかもしれない。一般告知を出す理由は、過去の連絡の欠落を断定したからではない。今、本人が選び直すための入口が見えないからだ。説明の主語を過去の誰かから、現在の利用者へ戻した。

一般告知の文章を短くすると、難しい言葉が残った。「封印記録」は本人に分かるだろうか。遼という若い相談員は、紙を読んで「何か悪いことをした人の記録みたいです」と言った。灯は言い換えた。「あなたについて、まだ見せるか消すかを決めていない記録があります」。だがそれでは、全員に記録があるように読める。二人は三度書き直し、「昔の記録が保管されているか、内容を見ずに確認できます」とした。

窓口では古い住所を証明できない人もいる。戸籍や家族の証言を出せる人だけに道を開けば、もっとも距離を置きたい人ほど戻れない。遼は本人確認の代替として、当時使っていた連絡手段、本人だけが選べる現在の連絡先、対面での段階確認を並べた。確認が終わるまで内容を開かず、代理人へも渡さない。灯は「本人以外を疑うための手順」に見えないよう、説明をやり直した。

夕方、灯は修の家へ十分だけ寄った。父は朝市で買った梨を一つ、切らずに机へ置いていた。灯は仕事の話をしないつもりだったが、父が「顔が書類みたいだ」と笑う。灯は詳しい内容を伏せたまま、「名前を見れば安心すると思ったけど、見ない方が分かることもあった」と言った。修は梨を半分に切り、「名前がなくても、今ここに来たのは分かる」と返した。灯は父の冗談を記録せず、梨の硬さだけ覚えた。

帰り道、美和から連絡があった。薄紙と原本を分けた袋の写真を、小川も確認した。四角い押し跡は封印機の部品ではなく、後年の整理用クリップだった可能性が高いという。ならば二人の番号も、同時に書かれた保証はない。灯は立ち止まり、二人目の職員を疑った自分の早さを思い返した。名前へ辿り着く前に手順へ辿り着けたのは幸運だったが、最初の推測が誰かを傷つける寸前だった。

翌日の告知案には、短い余白がある。「内容を知りたい」「まだ知りたくない」「保管状況だけ知りたい」。どれにも理由を書く欄はない。灯はその三つを並べたまま、破棄停止の再審査へ持っていくことにした。枝番二の本人が現れるかどうかを、期限延長の成功条件にはしない。選ぶ道を作り、誰かが来なかったことまで本人の落ち度にしないためだった。

事務所に戻ると、遼が一般告知の試し刷りを持って待っていた。裏面の端に、誰も頼んでいない一行が薄く印刷されている。「確認した記録は、翌朝に自動再生されます」。現在の手順に自動再生はない。十年前の試験機の文言でもない。遼は「印刷機の雛形でしょうか」と聞いた。灯は紙を折らず、出力元のファイル名と更新時刻を確かめた。更新は今日の十五時四分。一般告知を作り始めた後だった。誰が加えたのかを決める前に、明日の朝、その一行が何を動かすのか止めなければならない。

灯は印刷を止め、すでに刷った十七枚を数えた。配布済みはゼロ。遼は自分が見落としたと謝ったが、灯は二人で確認した原案にはその文がなかったと伝えた。原案、編集履歴、出力された紙を別々に保存する。紙を破れば不安は消えるかもしれないが、どこで一行が増えたかも消える。小川へ連絡すると、彼は自動再生の機能自体は今の保管庫にないと言った。それでも明朝、告知を受けた人が自分の記録が勝手に再生されると信じれば、窓口へ来る選択を失う。害は装置が動くことだけでは起こらない。

遼は新しい紙を刷る前に、三つの選択肢の下へ「どの手続きも、あなたの確認なしに内容を再生しません」と書いた。灯はその文にも期限と例外がないかを確かめた。完全な安心を約束するより、今の仕組みで守れる範囲を正確に言う。窓口の扉を閉める時、試し刷りの薄い一行は透明袋の中に残った。明日調べるべきなのは、誰の名前で更新されたかだけではない。押されていないはずの再生ボタンを、どこに置いたままにしていたのかだった。

READ ON

一日を、もう一度

25 / 25

このシリーズの全話 25編
  1. 第1話:待っていた朝ごはん
  2. 第2話:閉店前の5分間
  3. 第3話:父の店番
  4. 第4話:今日の話を聞く券
  5. 第5話:明日の私からの依頼
  6. 第6話:昨日の娘への葉書
  7. 第7話:10年前の私の忘れ物
  8. 第8話:父が録った何もない日
  9. 第9話:同じ録音を聞いた人
  10. 第10話:雨の日だけ空欄になる日記
  11. 第11話:誰にも見せない一頁
  12. 第12話:父が予約した木曜日
  13. 第13話:私が記録しなかった日
  14. 第14話:記録しない約束
  15. 第15話:私が頼んでいない記録
  16. 第16話:父が忘れなかった名前
  17. 第17話:明日から届いた留守番電話
  18. 第18話:今日を一度だけ覚えていない人
  19. 第19話:明日を録音しない夜
  20. 第20話:空白が返した声
  21. 第21話:もう一人の受取人
  22. 第22話:受けていない電話
  23. 第23話:受け取らなかった人
  24. 第24話:三つ目の穴
  25. 第25話:二人目の職員
READ ON

一日を、もう一度

25 / 25

このシリーズの全話 25編
  1. 第1話:待っていた朝ごはん
  2. 第2話:閉店前の5分間
  3. 第3話:父の店番
  4. 第4話:今日の話を聞く券
  5. 第5話:明日の私からの依頼
  6. 第6話:昨日の娘への葉書
  7. 第7話:10年前の私の忘れ物
  8. 第8話:父が録った何もない日
  9. 第9話:同じ録音を聞いた人
  10. 第10話:雨の日だけ空欄になる日記
  11. 第11話:誰にも見せない一頁
  12. 第12話:父が予約した木曜日
  13. 第13話:私が記録しなかった日
  14. 第14話:記録しない約束
  15. 第15話:私が頼んでいない記録
  16. 第16話:父が忘れなかった名前
  17. 第17話:明日から届いた留守番電話
  18. 第18話:今日を一度だけ覚えていない人
  19. 第19話:明日を録音しない夜
  20. 第20話:空白が返した声
  21. 第21話:もう一人の受取人
  22. 第22話:受けていない電話
  23. 第23話:受け取らなかった人
  24. 第24話:三つ目の穴
  25. 第25話:二人目の職員
READ ON

一日を、もう一度

25 / 26

このシリーズの全話 26編
  1. 第1話:待っていた朝ごはん
  2. 第2話:閉店前の5分間
  3. 第3話:父の店番
  4. 第4話:今日の話を聞く券
  5. 第5話:明日の私からの依頼
  6. 第6話:昨日の娘への葉書
  7. 第7話:10年前の私の忘れ物
  8. 第8話:父が録った何もない日
  9. 第9話:同じ録音を聞いた人
  10. 第10話:雨の日だけ空欄になる日記
  11. 第11話:誰にも見せない一頁
  12. 第12話:父が予約した木曜日
  13. 第13話:私が記録しなかった日
  14. 第14話:記録しない約束
  15. 第15話:私が頼んでいない記録
  16. 第16話:父が忘れなかった名前
  17. 第17話:明日から届いた留守番電話
  18. 第18話:今日を一度だけ覚えていない人
  19. 第19話:明日を録音しない夜
  20. 第20話:空白が返した声
  21. 第21話:もう一人の受取人
  22. 第22話:受けていない電話
  23. 第23話:受け取らなかった人
  24. 第24話:三つ目の穴
  25. 第25話:二人目の職員
  26. 第26話:翌朝に自動再生
READ ON

一日を、もう一度

25 / 26

このシリーズの全話 26編
  1. 第1話:待っていた朝ごはん
  2. 第2話:閉店前の5分間
  3. 第3話:父の店番
  4. 第4話:今日の話を聞く券
  5. 第5話:明日の私からの依頼
  6. 第6話:昨日の娘への葉書
  7. 第7話:10年前の私の忘れ物
  8. 第8話:父が録った何もない日
  9. 第9話:同じ録音を聞いた人
  10. 第10話:雨の日だけ空欄になる日記
  11. 第11話:誰にも見せない一頁
  12. 第12話:父が予約した木曜日
  13. 第13話:私が記録しなかった日
  14. 第14話:記録しない約束
  15. 第15話:私が頼んでいない記録
  16. 第16話:父が忘れなかった名前
  17. 第17話:明日から届いた留守番電話
  18. 第18話:今日を一度だけ覚えていない人
  19. 第19話:明日を録音しない夜
  20. 第20話:空白が返した声
  21. 第21話:もう一人の受取人
  22. 第22話:受けていない電話
  23. 第23話:受け取らなかった人
  24. 第24話:三つ目の穴
  25. 第25話:二人目の職員
  26. 第26話:翌朝に自動再生
READ ON

一日を、もう一度

25 / 26

このシリーズの全話 26編
  1. 第1話:待っていた朝ごはん
  2. 第2話:閉店前の5分間
  3. 第3話:父の店番
  4. 第4話:今日の話を聞く券
  5. 第5話:明日の私からの依頼
  6. 第6話:昨日の娘への葉書
  7. 第7話:10年前の私の忘れ物
  8. 第8話:父が録った何もない日
  9. 第9話:同じ録音を聞いた人
  10. 第10話:雨の日だけ空欄になる日記
  11. 第11話:誰にも見せない一頁
  12. 第12話:父が予約した木曜日
  13. 第13話:私が記録しなかった日
  14. 第14話:記録しない約束
  15. 第15話:私が頼んでいない記録
  16. 第16話:父が忘れなかった名前
  17. 第17話:明日から届いた留守番電話
  18. 第18話:今日を一度だけ覚えていない人
  19. 第19話:明日を録音しない夜
  20. 第20話:空白が返した声
  21. 第21話:もう一人の受取人
  22. 第22話:受けていない電話
  23. 第23話:受け取らなかった人
  24. 第24話:三つ目の穴
  25. 第25話:二人目の職員
  26. 第26話:翌朝に自動再生
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次