退職届の行き先は、月だった 第13話:一年前の片道予約

伝票の端には、紙を何度も折り直した白い筋があった。月面居住区ミナモの朝、修司はその筋を指でなぞり、昨日の自分が娘へ画像を送らなかった理由を思い出した。家族の古い連絡先が残っているだけで、咲が搭乗者だと決めつけることはできない。まして、父に黙って月へ行こうとしたと考えるのは、彼女に説明を求めるための都合のいい物語だった。

伝票を調べる前に、修司には今日の居住資格を延ばす仕事がある。昨日、凛と拓海が二人で認めた臨時カードは正午で切れる。地球の旧名簿に残る「帰還済み」が直らない限り、食堂も相談室も、彼には仮の鍵しか渡せない。修司は朝食のトレーを片手に、昨夜から自分の部屋だった扉が開くか確かめた。青い灯りが一度だけためらう。人の権利を機械の気分として受け取るのは、今日で終わりにしたかった。

運用室で凛は、地球側から届いた修正案を見せた。「誤表示一件。到着済みを未到着へ変更」。それだけなら修司のカードは戻る。だが、受入準備をした木島の仕事も記録から消え、同じ変換規則に通された人を探せなくなる。拓海は修正画面を開いたまま言った。「今日の資格と、規則の修理は分けましょう」。昨日まで一括修正を急いだ彼が、先に影響範囲を確かめようとしている。修司はその変化に小さく笑った。

二人は地球側の木島と通信し、到着記録ではなく搭乗記録を資格確認の根拠にする暫定手順を作った。月側の輸送名簿には修司の搭乗履歴がない。現に本人は凛の目の前にいる。木島は受入準備の署名を残し、誤変換の注記に自分の名前を置くと言った。責任を引き受けるためで、誤りを作った一人へ責任を押しつけるためではない。三者の確認番号がそろい、修司のカードは三十日更新の審査が終わるまで使えることになった。

ただし、相談者三人の引継ぎ先は自動では戻らない。名簿が失効した二十七分の間に、権限だけが代理担当へ渡っていた。内容が読まれたかは監査記録から分かるが、相談者の許しなく修司が取り返すこともできない。修司は三人へ同じ文章を送らなかった。夜勤の人には面談時刻の選択肢を、親への通信を望む人には通信窓口の変更だけを、当番交代の人には代理担当を続ける道も示した。三人とも別の暮らしをしている。

最後の返事を待つあいだ、拓海が片道予約の伝票を透明な袋に入れて持ってきた。表の月行き便名は一年前に廃止されたものだ。しかし紙の裏には新しい輸送網でも使う長い照会番号がある。予約が成立したなら、搭乗者の名前を見ずに「予約」「発券」「搭乗」の三段階だけを確認できる。修司はまず、その三つだけを照会した。伝票には予約の印、発券なし、搭乗なし。誰もこの紙で月へ来ていなかった。

「じゃあ心配は要らない」と拓海は言いかけて、伝票の下段で黙った。支払者の欄には名前でなく、日東生活設備の旧法人番号がある。修司が三十一年勤め、退職届を出した会社だ。しかも支払予定日は彼の退職より一年前。修司は驚きながらも、会社が自分を月へ送ろうとしていたと結論づけなかった。法人番号は経理の共通口座を指すだけで、個々の予約者を証明しない。

確認できるのは、予約が取り消された理由だった。発券に進まなかった伝票の備考欄には「同行者の居住権未確認」とある。誰かが本人と同行者を一つの申請へ載せ、二人目の住む権利を確かめられず止まった。修司は昨日見た家族受領の空白を思い出した。月へ来る席と地球へ帰る席は違う。それでも、誰かの同意を別の人が代表してしまう仕組みは、紙の両端に似た形で残っていた。

凛は居住区の古い計画を調べた。一年前、地球の生活設備会社に勤める人を対象に、月面の暮らしの不具合を見つける短期試験があった。専門資格のない人が対象になったのは、設備を使う側の小さな困りごとを拾うためだ。試験は拡張計画の予算変更で中止。応募者の名前は規定によって閉じられ、居住区側には人数と取り消し理由だけが残った。「当時、私も準備に参加した」と凛は言う。「その人が誰かは知らない」。

修司は、月が自分を選んだ運命の物語を作りかけた。だが試験の時点で彼は会社を辞めることなど考えていない。咲は映像の仕事を始めたばかりで、父の勤務先の書類に連絡先を残した覚えもないはずだ。備考の「同行者」が家族なのか、同僚なのかさえ分からない。修司は凛へ、本人の名を開示する権限が誰にあるかを尋ねた。旧試験の管理者、応募した本人、そして同行者本人。少なくとも自分だけでは足りない。

そこへ咲から通信が入った。昨日の短い映像を送った後、彼女は自分の古い番号に月行き予約の確認通知が来ていたことを思い出したという。「ずっと迷惑な広告だと思って消した。でも、月って言葉だけ覚えてる」。修司は伝票の番号を読み上げなかった。先に、どこまで調べたいか聞いた。咲は父と同じ画面で自分の連絡先を照合していい、と答えた。ただし、自分の過去の職場や友人を父が勝手に訪ねるのは嫌だと明確に言った。

二人で照会番号の末尾を確かめると一致した。咲はしばらく黙り、端末から古いメールを探した。件名は「月面生活試験・同行候補者への確認」。送り主は日東生活設備ではなく、当時の外部運営窓口。本文には、名前のない応募者から彼女を同行候補として挙げたいと申請があった、とある。同行は本人の承諾なしに決まらない。咲は忙しさに紛れて返信しなかった。未回答のまま発券期限が来て、席は失効した。

「私が返事をしなかったから、誰かが行けなかった?」。咲の問いは、父に謝るためのものではなかった。修司は「そうとはまだ言えない」と答えた。発券には本人の資格審査も必要で、試験自体が中止になっている。咲の未回答を唯一の理由にすれば、仕組みの都合を娘一人の選択へ押しつける。咲は画面を見たまま、「じゃあ、未回答を断ったことにも、承諾したことにもしないで」と言った。修司は手帳にその言葉をそのまま書いた。

木島に聞くと、古い試験の記録は今の帰還名簿とは別に保管されていた。照会番号のうち、本人や同行者の名前を隠した状態で見られる項目は四つ。申請日、発券状態、取消理由、試験の最終判断。最後の欄だけ、凛が見た予算中止とは違う。「生活調整枠を将来の常設職へ転換」。試験の募集は消えたのではなく、月で必要になった時に職を作るための調査へ変わっていた。

修司が今している仕事には、立派な資格の名前がない。朝、扉の前で立ち止まった人を見つけること。水の配管より先に、食卓に座れない人を探すこと。会社で長年してきたことを、月へ来てやっと生活調整官と呼べるようになった。その職の種が、自分の知らない一年前にもあった。応募者と自分が同一人物でなくても、誰かが似た問題を見つけ、次の人へ渡していたのだ。

百人目の入居を決める会議が午後に開かれた。地球側は空室十二の数字を示し、来月までに一人追加する案を出した。凛は昨日と同じ反対を繰り返さず、今朝の修司の資格停止が相談者三人の引継ぎへ影響した二十七分を示した。部屋が空いていても、鍵と相談窓口が一度に切れれば人を迎えられない。拓海は設備当番の代替表を出し、修司は「一人増やす前に一人が休める時刻」を表に足した。

会議は百人目を無期限に断るのでなく、条件を二つ決めた。生活相談を受ける担当が一人休んでも途切れないこと。新入居者が帰還や延長を選ぶ際、家族の未回答を勝手に同意へ変えないこと。地球側は十日間の準備期間を求めた。凛は、その十日を延長可能な仮の期限として受け入れる代わり、翌朝から相談担当の交代訓練を始めると約束した。修司は自分がずっと担当する前提で表を作らなかった。

会議後、咲からもう一度連絡が来た。「あのメールに返事をしなかったこと、後悔しているかはまだ分からない。でも、今は自分の意思で調べたい」。彼女は外部運営窓口へ、当時の自分宛ての情報だけを開示してほしいと請求した。応募者の名は求めていない。修司は画面越しに、父親として同席したいと言いたくなった。代わりに「必要なら呼んで」と返した。咲は初めて、心配を先回りせずに待つ父へ笑った。

夕方、三人の相談者から答えが届いた。二人は修司へ戻ることを選び、一人は代理担当を続けた。修司は自分を選ばなかった人に理由を聞かなかった。窓口の権限を戻す画面で二件だけを確定し、残る一件には次の面談時刻を残した。自分の仕事の価値を、全員に選ばれることと同じにしない。拓海は交代表の初日を引き受け、凛は「あなたが休める表にもなった」と修司へ言った。

夜、凛から伝票の確認結果が届いた。外部運営窓口は応募者名を開示しなかったが、照会番号に付いた「職歴参照先」だけ、本人の許可があれば見られるという。修司はそれを今夜開かなかった。咲が自分の情報を調べている間、父だけが先回りして答えを得る必要はない。ただ、書面の末尾にある小さな追記を見つけた。「同行候補者への連絡は、応募者本人ではなく勤務先の引継ぎ担当が依頼」。引継ぎ担当。日東生活設備でその役を長くしていたのは、ほかでもない修司だった。

食堂へ戻ると、朝は一拍遅れた扉がすぐに開いた。直ったのは機械だけではない。権限が移った二十七分を帳消しにせず、相談者が誰に話すかを自分で選び直せたから、彼はここで夕食を取れる。修司は一人分の皿を持って席を探した。拓海が向かいから手を振り、凛は明日の交代訓練の予定を紙に書き込んでいる。帰る場所は住所欄だけで決まらないと、今なら咲に説明できる気がした。それでも娘に長い説明を送らず、湯気の立つ皿の写真だけを送った。

自分が頼んだ記憶はない。誰かが修司の机を使ったのか、彼が忘れた一通なのか。彼は古い社員手帳を開き、一年前の同じ日付を探した。予定表には人の名前ではなく、「森下の紙を返す」とだけある。森下は、以前の引継ぎで名前を残さなかった同僚だ。伝票の「百人目より先」という手書きの文字を見比べると、手帳の森下から預かったメモと、数字の一の払いが同じだった。月行きの予約は、家族の秘密だけではなく、修司が返し忘れた仕事につながっている。

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退職届の行き先は、月だった

13 / 17

このシリーズの全話 17編
  1. 第1話:月面配属、承認済み
  2. 第2話:地球では会議、月では断水
  3. 第3話:娘の署名が必要です
  4. 第4話:重力1/6の面接
  5. 第5話:持っていけない机
  6. 第6話:帰還予定のない椅子
  7. 第7話:31人分の湯気
  8. 第8話:眠れない壁の向こう
  9. 第9話:取り消した人の名前
  10. 第10話:帰還便にない席
  11. 第11話:地球で待たない家族
  12. 第12話:帰還名簿の空欄
  13. 第13話:一年前の片道予約
  14. 第14話:森下に返す紙
  15. 第15話:咲が選ばなかった映像
  16. 第16話:生活を止めない会議
  17. 第17話:届かなかった相談
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退職届の行き先は、月だった

13 / 17

このシリーズの全話 17編
  1. 第1話:月面配属、承認済み
  2. 第2話:地球では会議、月では断水
  3. 第3話:娘の署名が必要です
  4. 第4話:重力1/6の面接
  5. 第5話:持っていけない机
  6. 第6話:帰還予定のない椅子
  7. 第7話:31人分の湯気
  8. 第8話:眠れない壁の向こう
  9. 第9話:取り消した人の名前
  10. 第10話:帰還便にない席
  11. 第11話:地球で待たない家族
  12. 第12話:帰還名簿の空欄
  13. 第13話:一年前の片道予約
  14. 第14話:森下に返す紙
  15. 第15話:咲が選ばなかった映像
  16. 第16話:生活を止めない会議
  17. 第17話:届かなかった相談
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退職届の行き先は、月だった

13 / 18

このシリーズの全話 18編
  1. 第1話:月面配属、承認済み
  2. 第2話:地球では会議、月では断水
  3. 第3話:娘の署名が必要です
  4. 第4話:重力1/6の面接
  5. 第5話:持っていけない机
  6. 第6話:帰還予定のない椅子
  7. 第7話:31人分の湯気
  8. 第8話:眠れない壁の向こう
  9. 第9話:取り消した人の名前
  10. 第10話:帰還便にない席
  11. 第11話:地球で待たない家族
  12. 第12話:帰還名簿の空欄
  13. 第13話:一年前の片道予約
  14. 第14話:森下に返す紙
  15. 第15話:咲が選ばなかった映像
  16. 第16話:生活を止めない会議
  17. 第17話:届かなかった相談
  18. 第18話:理由を書かない延長票
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退職届の行き先は、月だった

13 / 18

このシリーズの全話 18編
  1. 第1話:月面配属、承認済み
  2. 第2話:地球では会議、月では断水
  3. 第3話:娘の署名が必要です
  4. 第4話:重力1/6の面接
  5. 第5話:持っていけない机
  6. 第6話:帰還予定のない椅子
  7. 第7話:31人分の湯気
  8. 第8話:眠れない壁の向こう
  9. 第9話:取り消した人の名前
  10. 第10話:帰還便にない席
  11. 第11話:地球で待たない家族
  12. 第12話:帰還名簿の空欄
  13. 第13話:一年前の片道予約
  14. 第14話:森下に返す紙
  15. 第15話:咲が選ばなかった映像
  16. 第16話:生活を止めない会議
  17. 第17話:届かなかった相談
  18. 第18話:理由を書かない延長票
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このシリーズの全話 18編
  1. 第1話:月面配属、承認済み
  2. 第2話:地球では会議、月では断水
  3. 第3話:娘の署名が必要です
  4. 第4話:重力1/6の面接
  5. 第5話:持っていけない机
  6. 第6話:帰還予定のない椅子
  7. 第7話:31人分の湯気
  8. 第8話:眠れない壁の向こう
  9. 第9話:取り消した人の名前
  10. 第10話:帰還便にない席
  11. 第11話:地球で待たない家族
  12. 第12話:帰還名簿の空欄
  13. 第13話:一年前の片道予約
  14. 第14話:森下に返す紙
  15. 第15話:咲が選ばなかった映像
  16. 第16話:生活を止めない会議
  17. 第17話:届かなかった相談
  18. 第18話:理由を書かない延長票
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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