退職届の行き先は、月だった 第12話:帰還名簿の空欄

地球にいた頃、修司は「帰る」という言葉を住所の欄でしか考えなかった。月では、それは扉を開けられる資格、誰に話を聞いてもらえるか、食卓に自分の皿を置けるかという細かな出来事に分かれていた。だから名簿の一文字が変われば、身体は同じ場所にいても、暮らしの方が先に別の星へ行ってしまう。

居住区の朝は、地球にいた頃の修司が想像したほど静かではない。循環装置の低い音、食堂の皿が触れる音、隣室から聞こえる誰かの短い笑い声。その全部が三十日かけて自分の暮らしになった。昨日、咲と話してからも、修司は荷物をまとめなかった。帰らないと決めたからではない。次の三十日を選ぶ権利を、急いで捨てたくなかったからだ。朝の予定表には、生活相談の面談が三件と、葉山拓海に付き添って水の配管を見に行く時間が一つ。自分の一日がここにあることを、予定表はささやかに証明していた。

その予定表を開こうとしたとき、扉の認証が一拍だけ遅れた。小さな黄の灯りはすぐ緑に変わったが、修司は指を離せなかった。前に総務で使った端末も、異常の最初は決まって小さな遅れだった。相手の暮らしに影響する頃には、記録上は何日も前に決まったことになっている。理由をまだ知らないまま、彼は画面の時刻を紙の手帳へ書いた。後で何もなかったと分かれば、その一行を消せばいい。だが、何かが起きたなら、最初の小さな変化を覚えている人が一人は必要だ。

修司が相談を受けている三人には、共通の困りごとはない。夜勤の調整をしたい人、地球にいる親への通信時間を変えたい人、酸素設備の当番を交代したい人。それぞれ自分の話をどこまで他人に渡すか、自分で決めている。総務時代の修司なら、担当者が変われば記録もそのまま移ると思っただろう。ここでは、引継ぎの一行に同意がいる。規則が煩わしいのではなく、離れた星で小さくなりがちな本人の声を、そこへ残すためだと、修司はようやく分かり始めていた。

修司が帰還名簿の空欄を見つけたのは、窓の外に地球が細い青い爪のように浮かぶ朝だった。月面居住区ミナモの共用端末には、三十日間の適性試験を終えた人の次の行き先が並ぶ。国枝修司の欄だけ、地球への便名も月での延長期間も空白。ところが紙の控えには「本人帰還済み」と印字されている。昨日、娘の咲と決めたのは、互いの生活を止めない三十日更新の約束だった。帰るとも残るとも、まだ約束していない。

瀬尾凛は控えを見て眉を寄せた。「帰還済みなら、あなたの居住区カードは今日の正午で無効になる」。修司は、自分が今ここにいるのに、と笑いかけたが、凛は笑わなかった。食堂の配膳や私室の扉だけではない。生活調整官として受けている相談の引継ぎ先が、存在しない帰還記録に従って自動で変わる。修司が昨日預かった三件の相談は、名前を見せられる相手を相談者自身が選んでいる。名簿を直す前にカードが失効すれば、その約束を破る。

水循環技師の葉山拓海が端末を調べた。「便の予約が無いのに帰還済み。表示の同期が遅れただけかもしれません」。修司は頷き、まず事実を二つに分けた。地球側の受領記録に自分の到着時刻があること。月側の輸送記録には自分の搭乗がないこと。同じ人について片方だけが確定している。拓海は一度に両方を直す申請画面を開いたが、修司は手を添えて止めた。「地球の記録を消したら、誰が何を受け取ったかも見えなくなる」。修正より先に経路を残す。

ミナモ・デスクは、候補を三つ示した。入力した人の選択違い、帰還便の名義貸し、前日に作った三十日更新契約の変換ミス。どれが正しいとも言わない。根拠として表示された時刻の中で、修司は一つだけ気になった。到着記録は昨日の契約より四時間早く発行されている。契約が誤って変換されたなら、順序が逆だ。拓海は「なら名義貸し」と言いかけた。修司は、地球側で何を受け取ったかを確かめるまで、その言葉を保留した。

咲との通信がつながった。画面の向こうは地球の夕方で、彼女の机には映像の編集途中の波形が並ぶ。修司は帰還記録を見せた。「私は帰っていない。あなたが何か手続きしたかを疑っているわけでもない」。先にそれを言った。三十日更新の約束をした翌日に、父が家族の同意を確認する顔で電話をかければ、娘はまた選択を奪われる。咲は画面を見て、「私の欄にも通知が来た」と言った。そこには「家族受領」とある。しかし押せるはずの確認ボタンは無く、受領者名も空白だった。

「家族なら受け取ったことになるんだ」と咲は言った。修司はすぐ謝りたくなったが、まず「どこまで共有していいか」を尋ねた。咲は自分の画面の表示と時刻だけをミナモへ渡してよいと言い、私生活の予定は渡さないと付け加えた。修司はそれを凛と拓海に伝えた。家族欄の欠落を埋めるため、娘の今日の予定まで記録へ持ち込む必要はない。咲は「昨日の約束はまだ生きてるよ」と言い、通信を切る前に「でも、私の代わりに答えないで」と念を押した。

正午まで二時間。凛はカードの失効を止める暫定処理を提案した。居住区の非常手続きは、本人が滞在中であることを二人の職員が確認すれば一日だけ延長できる。拓海が設備管理の確認者、凛が運用責任者になる。修司自身は申請者で、承認者にはならない。これで暮らしと相談の引継ぎが一日保たれる。しかし名簿の矛盾は残る。修司は助かったと息をつき、申請欄の「原因判明」を空欄のままにした。

地球側の窓口へ連絡すると、到着記録は空港でも家族でもなく、生活継続担当という部署から来ていた。前日の記録にあった「八人目」だ。担当者は、人が月から帰る前に住宅や職場の受け皿を用意する仕事をしている。地球で家族を待機させないための仕組みだった。問題は、準備の完了を本人の帰還と同じ欄へ送っていたことだ。システム上は住む場所が用意された瞬間、人もそこに着いたことになる。修司はその説明を聞き、悪意のない仕事が作った嘘だと思った。

担当者の名は木島佳奈だった。木島は「帰還済み」の印を自分が押したわけではないと告げた。彼女の画面では「受入準備済み」と表示される。送信先の旧式の名簿だけが、準備を帰還に翻訳している。木島は一年前から同じ仕様を問題として報告していたが、実際に誤った失効まで起きたのは今回が初めてだった。「直すまで私の署名は消さないでください」と頼んだ。自分が知らずに出した情報が、修司の暮らしへどう届いたかを追いたいのだという。

修司は彼女の言葉で、退職前の自分を思い出した。日東生活設備で三十一年、総務の机に届いた申請を別の部署へ渡すだけだと思っていた。十一件の引継ぎ先を備考に書いた最後の日には、誰にも頼まれなかった仕事をしたつもりだった。でも紙の欄を一つ選ぶだけで、次の人の机に到着する意味が変わる。木島を責めれば、自分が長くしてきた仕事まで「ただの転記」と言い訳することになる。修司は、転記にも判断があったと認めた。

拓海は翻訳規則の変更案を作った。「受入準備済み」は帰還とは別の表示にし、家族の受領も本人が選ぶまで確定にしない。ただ、変更を今日中に全居住区へ適用すれば、すでに帰還した人の記録まで未確定へ戻る恐れがある。修司は一括修正へ飛びつかず、まず自分の件を試験例にした。月側は実際の搭乗記録で帰還を確かめ、地球側は準備と到着を別欄にする。既に帰った人は紙の搭乗控えと照合する。速く片づけたい気持ちと、他人の帰宅を不確かにしない責任がぶつかった。

午後、凛は居住区の拡張会議へ出る予定だった。地球側は百人目の入居を急ぎ、空室数だけで受け入れ可能と見ている。凛は修司の一件を会議へ出したいと言った。「部屋があることと、人が暮らせることは違う。その証拠になる」。修司は自分の名前を使う前に相談してくれたことに驚いた。公開するのは、カードが失効しかけた仕組みと暫定対策まで。咲の通知画面と木島の個人名は外す。凛は「それでも十分に重い」と言い、修司は「数字だけにしないで」と返した。

会議では地球側の担当者が、居住区の空きが十二室あると繰り返した。修司は発言を求められた時、空き室の数を否定しなかった。代わりに、相談を引き継げる人が何人いるか、戻る便を待つ人のカードがいつ切れるか、暮らしを支える当番がどう回るかを聞いた。担当者はすぐに答えられない。凛が表へ「居住できる」と「受け入れ準備ができた」を別に書くと、百人目の予定日は初めて空欄になった。延期の決定ではない。決めるための材料が足りないと、全員が見えるようになった。

修司は通信を終え、月の窓辺で紙の名簿を見た。帰還済みの印は残してある。その横に「地球側の生活受入準備を誤変換」と注記が付いた。消した方がきれいな紙になる。しかし自分の一日の不安が、次の人の予防策になるなら、跡を残したい。凛は「修司さん、明日の昼まで滞在資格はあります」と確認した。彼は「明日だけですか」と冗談を言いかけ、今は一日分の確かな権利が嬉しいと気づいた。

夜、咲から短い映像が届いた。編集した作品ではなく、窓から見える地球の町の交差点を十秒だけ撮ったものだ。「ここは私が帰る場所。お父さんの帰る場所と、同じでなくてもいい」。その言葉は距離を置く宣言ではなく、互いが違う場所から連絡を続ける約束に聞こえた。修司は月の窓から地球を撮り返さなかった。見せたい時に見せればいい。返事は「今日はここにいるよ」だけにした。

翌日の確認欄を整えていた拓海が、紙の名簿の裏へ折り込まれた細い伝票を見つけた。木島の署名より一年前の日付がある。地球発、月行き、片道。搭乗者の名は塗りつぶされているのに、家族の連絡先の末尾は咲が昔使っていた番号と同じだった。修司の退職届より前に、国枝家の誰かが月へ向かう席を押さえていたことになる。咲が知っているとは限らない。修司は端末へ写真を送る手を止めた。今夜はまだ娘の問いを、自分の発見で上書きしない。まず明日、伝票が本当に発券されたのかを確かめる。その番号の横には、小さく「百人目より先」と書かれていた。

READ ON

退職届の行き先は、月だった

12 / 17

このシリーズの全話 17編
  1. 第1話:月面配属、承認済み
  2. 第2話:地球では会議、月では断水
  3. 第3話:娘の署名が必要です
  4. 第4話:重力1/6の面接
  5. 第5話:持っていけない机
  6. 第6話:帰還予定のない椅子
  7. 第7話:31人分の湯気
  8. 第8話:眠れない壁の向こう
  9. 第9話:取り消した人の名前
  10. 第10話:帰還便にない席
  11. 第11話:地球で待たない家族
  12. 第12話:帰還名簿の空欄
  13. 第13話:一年前の片道予約
  14. 第14話:森下に返す紙
  15. 第15話:咲が選ばなかった映像
  16. 第16話:生活を止めない会議
  17. 第17話:届かなかった相談
READ ON

退職届の行き先は、月だった

12 / 17

このシリーズの全話 17編
  1. 第1話:月面配属、承認済み
  2. 第2話:地球では会議、月では断水
  3. 第3話:娘の署名が必要です
  4. 第4話:重力1/6の面接
  5. 第5話:持っていけない机
  6. 第6話:帰還予定のない椅子
  7. 第7話:31人分の湯気
  8. 第8話:眠れない壁の向こう
  9. 第9話:取り消した人の名前
  10. 第10話:帰還便にない席
  11. 第11話:地球で待たない家族
  12. 第12話:帰還名簿の空欄
  13. 第13話:一年前の片道予約
  14. 第14話:森下に返す紙
  15. 第15話:咲が選ばなかった映像
  16. 第16話:生活を止めない会議
  17. 第17話:届かなかった相談
READ ON

退職届の行き先は、月だった

12 / 18

このシリーズの全話 18編
  1. 第1話:月面配属、承認済み
  2. 第2話:地球では会議、月では断水
  3. 第3話:娘の署名が必要です
  4. 第4話:重力1/6の面接
  5. 第5話:持っていけない机
  6. 第6話:帰還予定のない椅子
  7. 第7話:31人分の湯気
  8. 第8話:眠れない壁の向こう
  9. 第9話:取り消した人の名前
  10. 第10話:帰還便にない席
  11. 第11話:地球で待たない家族
  12. 第12話:帰還名簿の空欄
  13. 第13話:一年前の片道予約
  14. 第14話:森下に返す紙
  15. 第15話:咲が選ばなかった映像
  16. 第16話:生活を止めない会議
  17. 第17話:届かなかった相談
  18. 第18話:理由を書かない延長票
READ ON

退職届の行き先は、月だった

12 / 18

このシリーズの全話 18編
  1. 第1話:月面配属、承認済み
  2. 第2話:地球では会議、月では断水
  3. 第3話:娘の署名が必要です
  4. 第4話:重力1/6の面接
  5. 第5話:持っていけない机
  6. 第6話:帰還予定のない椅子
  7. 第7話:31人分の湯気
  8. 第8話:眠れない壁の向こう
  9. 第9話:取り消した人の名前
  10. 第10話:帰還便にない席
  11. 第11話:地球で待たない家族
  12. 第12話:帰還名簿の空欄
  13. 第13話:一年前の片道予約
  14. 第14話:森下に返す紙
  15. 第15話:咲が選ばなかった映像
  16. 第16話:生活を止めない会議
  17. 第17話:届かなかった相談
  18. 第18話:理由を書かない延長票
READ ON

退職届の行き先は、月だった

12 / 18

このシリーズの全話 18編
  1. 第1話:月面配属、承認済み
  2. 第2話:地球では会議、月では断水
  3. 第3話:娘の署名が必要です
  4. 第4話:重力1/6の面接
  5. 第5話:持っていけない机
  6. 第6話:帰還予定のない椅子
  7. 第7話:31人分の湯気
  8. 第8話:眠れない壁の向こう
  9. 第9話:取り消した人の名前
  10. 第10話:帰還便にない席
  11. 第11話:地球で待たない家族
  12. 第12話:帰還名簿の空欄
  13. 第13話:一年前の片道予約
  14. 第14話:森下に返す紙
  15. 第15話:咲が選ばなかった映像
  16. 第16話:生活を止めない会議
  17. 第17話:届かなかった相談
  18. 第18話:理由を書かない延長票
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次