修司が夜間当番の端末から自分の名前を外した翌朝、相談席の画面には緑色の「全件到達」が灯っていた。凛はそれを見て安心しなかった。到達したものだけを数えれば、届かなかった相談は初めから存在しないことになる。百人目の候補者が使う到着前窓口の試験記録を開くと、昨日食堂に残された匿名の付箋と同じ末尾三桁が、送信側の控えにだけあった。受信側の一覧にはない。修司は付箋の筆者を捜す前に、二つの一覧を別々に保存するよう頼んだ。
候補者はまだ地球にいる。昨日の会議で便の出発は決まったが、居室に入る日は本人の選択に残した。送信側の控えには、居室の確認に必要な質問という分類と、送信時刻がある。本文は暗号化され、候補者以外の端末では読めない。凛は「質問を見せてもらえば早い」と言いかけ、言い直した。早く知りたいのは運営側だ。質問に答えるために本人の私的な事情まで開く必要があるかは別である。
拓海は通知経路の図を紙に描いた。候補者の端末から地球の受付へ、受付から月の生活相談席へ、必要なら設備当番へ。旧版では最初の二本が一つの矢印で表され、月に届いた時刻だけが「受付済み」になっていた。新しい交代表は月の席に人を置いたが、地球の受付が月へ転送しない時に誰が気づくかを決めていない。緑色の表示は月へ届いた件の割合だった。分母に送信件数が入っていない。
「四分で届く、と昨日言ったのは誰でしたっけ」と森下が聞いた。修司は手を挙げた。厳密には拓海が試験結果を示し、自分が会議でその結果を使った。しかし聞く人には、今夜の相談も四分で届くと響いたはずだ。拓海は実測が模擬呼出しに限られると会議で説明していた。説明があっても、見出しになった数字は一人歩きする。修司は住人向けの案内に「到達を確認できない場合の再連絡先」がないことを認めた。
食堂の付箋は誰が貼ったか分からない。候補者が印刷して渡したかもしれないし、地球の受付が異常を知らせるために置いたのかもしれない。付箋に書かれた番号も、質問した本人を識別するには足りない。修司は防犯映像を見ようとした職員を止めた。映像を調べれば貼った人の顔は分かるかもしれない。だが誰が助けを求めたかより、助けを求めた声がどの段階で消えたかを先に確かめるべきだった。
凛は地球の受付へ、本文ではなく配送の控えを求めた。受付の担当者は、前夜二十時十四分に一件を受け、二十時十五分に月向けの転送待ちへ置いたと答えた。二十時十六分には「照会中」の印が付き、翌朝まで動いていない。照会とは何か。担当者は居室契約が未発効だから相談の種別を決めかねた、と説明した。到着後に本人が居室へ入る日を選ぶ権利を認めた結果、到着前の質問がどの窓口に属するか分からなくなったのである。
修司は怒鳴りたくなった。昨日、到着と入居を分けたばかりだった。分けることが人を守ると思ったのに、その間に落ちる声を作っていた。凛は「分けたことを取り消せば早い」と言う者が出る前に、図の矢印を一本書き足した。契約前の居室質問も生活相談席で受ける。ただし回答を契約の同意と見なさない。質問を受け取ることと、住む決断を代行することを分離する。直すのは分類表であって、候補者の選択権ではない。
地球の受付担当者は、照会中にした理由をもう一つ話した。質問の末尾に「映像」の文字が見えたという。本文は読めないはずでは、と拓海は首を傾げた。受付担当者が見たのは自動生成された件名の候補語だった。過去に咲の映像確認を相談窓口へ流した際の分類が、端末の予測候補に残っている。今回の本文に映像の話がある証拠にはならない。修司はその弱い手掛かりを消さずに記録し、事実の欄には入れなかった。
咲には、候補者の質問内容を知らないまま連絡した。父親から「あなたの映像のことで」と切り出されるのを警戒して、彼女は少し黙った。修司は謝り、映像についての問い合わせかどうかも未確認だと伝えた。咲は「なら、私の作品が原因だと先に決めないで」と言った。そして、候補者が映像を見ない自由もある、と付け加えた。彼女は編集を続けるが、候補者への確認連絡に映像の視聴を条件として付けないことを求めた。
地球の担当者へは、候補者に二つだけ知らせてもらう。昨日の質問が月に届いていなかった事実。本文を開かずに配送だけを再試行できること。どの窓口から答えを受けたいか、本人が選べること。修司は文章を三度削った。「ご心配をおかけしました」だけでは、何が起きたか分からない。「至急返信ください」は、運営側の失敗を本人の締切へ変えてしまう。凛は最終稿に、返信しなくても便と居室選択の権利は失われない、と明記した。
昼前、候補者から短い返事が来た。昨日送った質問を月の生活相談席へ転送してよい。ただし本文を記録として残すのは回答後に自分が選ぶ。地球の受付担当者は転送の許可範囲を復唱し、時刻を控えた。拓海は配送だけの追跡番号を作る。質問の本文へ人が触れた瞬間と、その人が何のために触れたかを、候補者にも見られる形で残した。速さのために閲覧者を増やす修理にはしなかった。
届いた本文は、修司の想像と違っていた。「居室を選ばない間、食堂の席に名前を置かれますか」。設備の故障でも、映像への抗議でもない。地球側の説明資料では、到着した人の食事の予約が居室番号と結びついていた。居室を決める前にも食事は要る。候補者が恐れたのは飢えることではなく、食べるために住む場所を決めたことにされることだった。修司はその質問を読んで、昨日の会議で便と居室を分けた自分が、食堂の席を見ていなかったと知った。
森下が配膳表を持ってきた。食堂には見学者用の番号札があり、病院から一時的に来る人にも使う。だが月面で数日を過ごす候補者を「見学者」と呼び続けるのは違う。凛は居室の番号と独立した食事券を発行できるか確かめた。会計上は可能で、三日分までは既存の到着支援費で賄える。四日目以降の費用の決め方は未整備だった。修司は三日分だけ先に出して安心を約束し、四日目の問題を隠すのを避けた。
候補者へは、今日の便で到着した後三日間、居室を決めなくても食事と休憩場所を使えると答えた。四日目以降は本人の希望を聞き、支援費を延長するか、別の滞在契約を提示する。どちらも居室への同意とは結びつけない。凛は「三日で決めてください」と読める文を消した。期限があるのは当面の費用枠であって、本人の考える時間ではない。予算の穴を人の決断で塞がないため、地球側にも延長判断の責任を送った。
高瀬から返事が届いた。「到着支援費の延長は前例がない」。修司は前例がないことを拒否理由にされると思った。ところが次の行には、誰が承認できるかを今日中に調べる、とあった。昨日は数字を急いでいた高瀬が、決まらない部分を決まらないまま引き受けている。修司は感謝の言葉より先に、回答期限と代理承認者の名前を尋ねた。高瀬は自分が不在なら予備担当が受けると記した。月で学んだ交代表が、地球の机にも一つ増えた。
午後、拓海は「全件到達」の表示を外した。代わりに三つの数を置く。送信側が受け付けた件数、月側が受け取った件数、差分として追跡中の件数。本文の中身は数えない。差分が一件でもあれば緑色の画面にはしない。ただし差分がゼロでも、相談が解決したことにはならない。凛は住人への掲示に、その区別を大きく書いた。「届いた」と「済んだ」の間には、人が答えを待つ時間がある。
試験で別の問題が見つかった。地球の受付が転送待ちを解除しても、月の席で同じ追跡番号を二回受け取る場合がある。片方を削除すると履歴が途切れ、両方を別件として扱うと人数が増える。拓海は二つの受領時刻を残し、本文へのアクセスは一件として扱う仕様にした。相談した人に同じ説明を二度求めないためだ。小さな重複は、数字の見栄えを直すだけでは消えない負担を生む。
修司は夜の食堂で、森下と配膳の札を並べた。到着予定者のための無記名の札が一枚ある。特別な歓待にしない。座るかどうかを選ぶ人のために、空いた席として置く。森下は「百人目って書かないの」と尋ねた。修司は首を振った。百人目という数字は、事業に必要かもしれない。けれど食べる人には、順番より湯気の立つ器が先だ。森下は余った野菜を少し多めに盛り、無記名の札の隣へ置いた。
そのころ地球の受付から、付箋について新しい情報が来た。受付担当者が送信控えの番号を見て、月の担当へ知らせようと紙に書いたのは確かだった。しかし食堂に貼ったのは担当者本人ではない。紙は便の荷物に混ぜられ、前日に月へ着いていた。誰が掲示板へ運んだかは分からない。付箋は候補者の秘密の告発でも、悪意ある内部告発でもなかった可能性が高い。配送経路だけが分かり、置いた人はまだ分からない。修司は推測を追いかけず、番号を伏せた障害報告を掲示した。
候補者は到着前に、もう一つ選択を返した。自分の質問と回答を、同じ不達を防ぐための事例に使ってよい。ただし食堂の席について尋ねた言葉は引用しないでほしい。凛は「生活相談が契約未発効を理由に照会中となった」とだけ障害票に書く。質問の具体性が修理のきっかけになった事実は忘れない。それでも本人の言葉を、制度改善の手柄として勝手に掲げない。修司はその線引きが、咲の映像を待った判断と似ていると思った。
便の着陸時刻が近づくと、報道用の画面には「百人目」と大きく出た。修司は広報から数を消せとは言わなかった。代わりに、到着した事実だけを発表し、居室の契約や映像の公開を含めないよう確認した。高瀬が承認欄を分けて署名する。数字が誰かの生活へ踏み込む時、その境界を守るのは言葉一つではなく、署名と手順を分ける仕事になる。
候補者が便を降りた時、修司は迎えの列の先頭に立たなかった。連絡員から「直接の迎えは不要」と伝わっていたからだ。凛が案内を示し、設備当番が休憩室を開ける。食堂へ行く道と居室を見る道は途中で分かれる。候補者は地図を受け取り、まず休憩室を選んだ。修司は遠くからその背中を見て、昨日なら「着いたから居室へ」と歩く順番まで決めていたかもしれないと思った。
夜間相談席へ、候補者から新しい連絡が入った。食堂の札は見た。今夜は休憩室で食べたい。返事は二分で届いた。だが修司は時計を見て喜ぶのをこらえた。食事が運ばれ、本人が「受け取った」と伝えるまでは、その相談は終わらない。森下が盆を持って廊下を歩く。修司は自分の端末を見ず、担当席に残る受領の印を待った。三十二分後、短い「ありがとう」が届き、凛は解決時刻を別の欄へ書いた。
その夜、高瀬から四日目以降の費用について回答が来た。延長の承認権は地球側にあり、候補者が望む間は一週間ごとに更新できる。ただし更新の際には、なぜ居室を選ばないかという理由を求める旧様式が残っていた。修司は回答をそのまま候補者へ送らなかった。支援を延長できるのは前進だが、理由の開示を条件にすれば、選ぶ時間を買うために私事を差し出すことになる。凛は明朝、理由欄を任意にする変更を高瀬へ求めることにした。
拓海が交代表を閉じようとすると、もう一件、送信数と受領数の差が一つ現れた。今度は候補者の番号ではない。発信元は月面の既存住民向け端末で、宛先は地球の医療相談だった。生活相談の修理は届いた。けれど同じ「照会中」が、別の窓口にも残っている。修司は自分の名前を当番表へ戻さず、担当の医療連絡員を呼んだ。誰の相談かを先に開かない。まず、どこで止まったかを調べる。画面には緑ではなく、まだ一つの黄色い差分が灯っていた。
退職届の行き先は、月だった
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