店の扉には、今日の営業時間が手書きで残っている。疑惑が来ても、相談の入口まで閉めるわけにはいかなかった。
正直屋を始めてから、真砂は値札の無い棚に慣れなかった。物を売らないなら店を閉めればいいと、古い客に何度も言われた。だがここへ来る人の中には、自分が買わされた嘘を返す場所を他に持たない人がいる。返せば金が戻るとは限らない。誰かを許せるようにもならない。ただ、嘘を抱えたまま一人で帰る以外の手順がある。その曖昧な店を続けるために、真砂は昨日、証言に値を付けることをやめた。だから今朝の買付票は、過去の商売だけでなく、昨日ようやく始めた仕事まで嘲笑っているように見えた。
棚の奥には、十八件をまとめていた古い札の跡が残る。昨日剥がした紙の下だけ、木の色が少し薄い。羽鳥はその跡を隠さずに置いた。「消したことにすると、最初から売っていなかった顔になるから」。真砂はうなずいた。第一部で黒瀬を騙し返した時も、事実を示せば自分の取引まで清算できると思いかけた。だが佐和は、救われた人と傷ついた人を一枚の写真に収めるなと言った。正直屋はその言葉からできた店だった。赤い札が誰の手で来たとしても、真砂には買った覚えがないと叫ぶだけでは足りない。
正直屋のレジに届いた赤い値札は、表から見るとただの厚紙だった。裏には「支払済み証言、一件」とある。領収名は真砂悠介。彼は昨日、証人の話を値段から切り離したばかりだ。十八件を一つの証言として売らないよう、返却と保留を別々にした。その夜に、自分が買い手と記された票が来る。白紙の契約書なら自分の得意な商売だったが、今回は空欄へ名前を書かれたのが自分だった。
羽鳥ミカは値札を持ち上げ、端の赤い繊維を見た。「うちの店の札じゃない」。正直屋が使うものは角を落とした再生紙だ。これは直角のまま、古い帳簿の紙を切ってある。真砂は裏面の小さな刻印を見つけた。十八の数字ではなく、十八の横に細い横棒がある。昨日見た証人番号の札にも、同じ線があった。だが真砂はそれだけで同じ持ち主だとは決めなかった。札を渡した人と、その札の名義を使った人は別かもしれない。
「店主だけが開ける」の文字を見て、羽鳥は鍵束を机へ置いた。真砂なら今すぐ開けられる。開けば中身を知り、開かなければ証言者を守れるとは限らない。封筒はもともと開封者を記録する仕組みになっている。真砂がためらっている間にも、誰かが中身をすり替えられる。彼は第三者保管を引き受けている佐和へ電話し、封筒の外側と時刻だけを共有した。佐和は「あなたが買ったという説明を、あなた自身に任せないで」と言った。
佐和が店へ来るまで、真砂は自分の帳簿を調べた。昨夜の売上はゼロ。支払いにも、返金にも、赤い札を買う金額は無い。羽鳥は昔の屋号の台帳を持ってきた。正直屋を開く前、真砂は相手が信じたがる話に値を付けていた。その残りの取引が新しい店へ届いた可能性がある。しかしその台帳にも、昨日の日付の支払いは無かった。「買ったのはお金じゃなく、黙る理由かもしれない」と羽鳥が言い、真砂は否定できなかった。
佐和が到着すると、まず赤い札に触れないまま、十八件の保管台帳と突き合わせた。昨日、証人たちはそれぞれ返却、保留、撤回を選べるようになった。番号十八は十八人目の人間ではなく、十八件の選択をまとめていた旧い窓口番号だった。その中の一件が真砂の父に関わる。佐和はそこだけを指して「あなたは、これを開きたい」と言った。真砂は頷いた。父を知りたい気持ちを、調査の必要性と混ぜれば、以前と同じ商売になる。
三人は封筒の外へ透明な袋をかぶせ、差出人の印と受け取った順番を記した。中身の公開はしない。まず値札が要求する行為を読む。裏の細字には「代金の受領をもって、証言の使用権を店主に移す」とあった。受領の印は既に押されている。だが支払者の欄は空白だ。店主の名前と代金受領だけがあれば、誰が金を出したかを隠して証言を自由に使える。真砂が昔、他人の望みに合わせた物語を売る時に好んだ作りだ。
羽鳥が印の下の時刻を読んだ。昨日の午後二時十七分。十八件を第三者保管へ移したのは二時三十一分。もし受領印が本物なら、証人が選択を取り戻す前に、誰かが使用権だけを確保している。佐和は保管先へ連絡し、該当する一件の使用申請が届いていないか確かめた。届いていたのは一件。申請者は「店主」とだけ書かれ、添付された説明文は真砂の父の事件を正直屋の再出発の証拠として紹介するものだった。
真砂はその文章を見て、喉の奥が冷えた。父の拒否が美談になり、その息子の店が潔白の看板になる。正直屋へ客を呼ぶには都合がいい。父のしたことを知りたいと思う人にも届くだろう。だが父が断った依頼、断った理由、傷ついた人の言葉が一つの宣伝に縫い合わされている。文章の末尾には「関係者の同意を得た」とあった。どの関係者かは書いていない。昨日までなら、真砂は曖昧な一文こそ売れると判断したはずだった。
佐和は説明文の保存番号を見せた。発行したのは正直屋の端末ではない。旧屋号が使われていた頃の印刷所の番号だ。支払済みの札も同じ紙。誰かが古い帳簿の形を借り、新しい店主に昔の取引を引き受けさせようとしている。真砂は「黒瀬か」と口にした。羽鳥は即答しない。「あの人なら、もっと見える場所に自分の名前を置く」。それは推測だ。黒瀬が関わらない証明でもない。三人は疑う順番を決めず、票の出所を追った。
午後、印刷所の元担当者が店へ来た。彼女は台帳の番号を見て、赤い紙が特別な注文ではないことを教えた。正直屋が開く前、真砂の父が一度だけ「息子の名前では受け取らせないでほしい」と指定した返却票の控えだという。買付票ではなく、返却票。その紙を切り、受領欄だけを残せば、誰でも買った証拠に見せられる。真砂は父が用意したものだから自分に有利だと考えかけ、すぐやめた。父の意図を今の自分の免責へ使えば、また人の選択を奪う。
元担当者はもう一つ覚えていた。父は封筒を受け取る相手を決めていなかった。息子へ渡すか、証言した本人へ返すか、最後まで保留した。そのため二種類の控えが残った。赤い札の紙はその一方から切られている。誰かが「保留」を「支払済み」に見せ替えた。佐和は印刷所の話をそのまま証拠とはしなかった。当時の控えと今日の紙の切り口を保管先で照合するまで、元担当者の記憶には記憶という札を付けたままにする。
羽鳥は店の窓から通りを見た。正直屋へ入ろうとして、入口で引き返す女性がいた。昨日の十八件の一人だ。赤い札の話はまだ公開していないのに、彼女は何かを知っているのかもしれない。真砂は追いかけようとしたが、佐和に止められた。「聞きに行けば、あなたの知りたいことを答えるために来た人にしてしまう」。真砂は店の扉に、昨日決めた選択肢を貼った。今は話さなくていい。後から撤回できる。相談先は店主だけではない。それだけを誰からも見える場所へ置いた。
昼過ぎ、保管先から照合結果が戻った。切り口と紙の繊維は古い返却票に一致した。だが赤い札に押された受領印は新しい。日付だけでなく、印の外枠が先月から変わったものだった。古い紙へ最近押した印だ。これで父が完成させた買付票という説明は崩れる。誰かが今、未決定の返却を、真砂が買った証言へ変えている。真砂はまず申請の使用を止めるよう、保管先へ異議を出した。紙は消さない。改変の痕を残して止める。
申請を止めるには、店主の署名が要ると告げられた。署名すれば、買い手としての自分を認めるようにも読める。羽鳥は別の欄を見つけた。「名義を悪用された本人からの保留申請」。それなら事実を決めつけず、使用だけを止められる。ただし、三日以内に署名の真正を調べなければ申請は自動で戻る。真砂は署名した。過去の自分がしなかった約束を今、名前で引き受ける。期限のある保留を選び、その期限を壁の予定表へ大きく書いた。
佐和は十八件の証人へ一斉に知らせる案を退けた。関係ない人まで、自分の証言が買われたと怯えさせる。該当する一件の本人へは第三者保管から連絡する。本人が望めば文面も署名も確認でき、望まなければ保留のまま守る。真砂は自分がその人の名を知らないことに耐えた。父の真相がそこにあるかもしれない。それでも、相手が黙る自由を、自分の知る権利の下へ置かない。正直屋の看板より重い選択だった。
夕方、女性がまた店の前に立った。今度は入ってきて、扉の選択肢を指でなぞった。「保留したままでいいんですね」。真砂は「ええ」とだけ答えた。彼女は自分の番号も、見たものも言わなかった。かわりに、昨日の貼り紙には「店主へ相談」としか無かったと教えた。今日増えた第三者窓口を見て入れたのだという。真砂は知らなかった。昨日、自分は本人に選択を返したつもりで、入口には自分しか置いていなかった。彼女の短い指摘が、赤い札より痛かった。
閉店の少し前、羽鳥が旧屋号の台帳から一枚の白紙を抜いた。透かすと、赤い札と同じ横棒が見える。十八件の印ではなく、印刷所が保留票の束を識別するための線だった。昨日の札にそれがあったことは、誰かが古い保留票へアクセスできたという手がかりになる。真砂は自分の名がどこへ残っているか、台帳の閲覧記録を求めた。閲覧者は黒瀬でも羽鳥でもなく、正直屋の開店日より前の真砂自身だった。
真砂は閲覧した記憶がない。羽鳥も、その日は二人で別の町にいたと覚えている。だが記録には、旧屋号の真砂の署名がある。さらに小さく、署名を受け取った人の欄に「灯」と読める一文字があった。人名か、窓口の略号か分からない。佐和は紙を封じ、「名前を推理で埋めるのは明日」と言った。真砂は初めて、父の封筒を開けたい気持ちより、自分の署名が誰の沈黙を買ってしまったのかを知りたいと思った。赤い札の裏にはもう一行、まだ誰も読んでいない文字があった。「売り手は店主ではない」。
嘘を売る人
27 / 32
このシリーズの全話 32編
- 第1話:白紙の契約者
- 第2話:存在しない地主
- 第3話:紙の花を折る女
- 第4話:父の住所で待つ男
- 第5話:買い手を間違えた嘘
- 第6話:値段のない庭
- 第7話:黒瀬の寄付
- 第8話:悪役の領収書
- 第9話:嘘を買わなかった人
- 第10話:白紙に書かれた本名
- 第11話:嘘を売らない女
- 第12話:父が買わなかった真実
- 第2部第1話:未決済の買い手
- 第2部第2話:未来の領収書
- 第2部第3話:正直屋の開店日
- 第2部第4話:相棒を売った封筒
- 第2部第5話:2日目の値札
- 第2部第6話:値段のない上司
- 第2部第7話:空白の代替要員
- 第2部第8話:回答者の消えた面接票
- 第2部第9話:買われなかった署名
- 第2部第10話:父が断った依頼
- 第2部第11話:依頼人ではない代理人
- 第2部第12話:開店前の正直屋
- 第2部第13話:嘘を買わない客
- 第2部第14話:値札を外した証人
- 第2部第15話:証言を買った店主
- 第2部第16話:灯が買った証言
- 第2部第17話:最初の嘘の領収書
- 第2部第18話:取り消した引受人
- 第2部第19話:旧名の窓口
- 第2部第20話:封じた人の署名
嘘を売る人
27 / 32
このシリーズの全話 32編
- 第1話:白紙の契約者
- 第2話:存在しない地主
- 第3話:紙の花を折る女
- 第4話:父の住所で待つ男
- 第5話:買い手を間違えた嘘
- 第6話:値段のない庭
- 第7話:黒瀬の寄付
- 第8話:悪役の領収書
- 第9話:嘘を買わなかった人
- 第10話:白紙に書かれた本名
- 第11話:嘘を売らない女
- 第12話:父が買わなかった真実
- 第2部第1話:未決済の買い手
- 第2部第2話:未来の領収書
- 第2部第3話:正直屋の開店日
- 第2部第4話:相棒を売った封筒
- 第2部第5話:2日目の値札
- 第2部第6話:値段のない上司
- 第2部第7話:空白の代替要員
- 第2部第8話:回答者の消えた面接票
- 第2部第9話:買われなかった署名
- 第2部第10話:父が断った依頼
- 第2部第11話:依頼人ではない代理人
- 第2部第12話:開店前の正直屋
- 第2部第13話:嘘を買わない客
- 第2部第14話:値札を外した証人
- 第2部第15話:証言を買った店主
- 第2部第16話:灯が買った証言
- 第2部第17話:最初の嘘の領収書
- 第2部第18話:取り消した引受人
- 第2部第19話:旧名の窓口
- 第2部第20話:封じた人の署名
嘘を売る人
27 / 33
このシリーズの全話 33編
- 第1話:白紙の契約者
- 第2話:存在しない地主
- 第3話:紙の花を折る女
- 第4話:父の住所で待つ男
- 第5話:買い手を間違えた嘘
- 第6話:値段のない庭
- 第7話:黒瀬の寄付
- 第8話:悪役の領収書
- 第9話:嘘を買わなかった人
- 第10話:白紙に書かれた本名
- 第11話:嘘を売らない女
- 第12話:父が買わなかった真実
- 第2部第1話:未決済の買い手
- 第2部第2話:未来の領収書
- 第2部第3話:正直屋の開店日
- 第2部第4話:相棒を売った封筒
- 第2部第5話:2日目の値札
- 第2部第6話:値段のない上司
- 第2部第7話:空白の代替要員
- 第2部第8話:回答者の消えた面接票
- 第2部第9話:買われなかった署名
- 第2部第10話:父が断った依頼
- 第2部第11話:依頼人ではない代理人
- 第2部第12話:開店前の正直屋
- 第2部第13話:嘘を買わない客
- 第2部第14話:値札を外した証人
- 第2部第15話:証言を買った店主
- 第2部第16話:灯が買った証言
- 第2部第17話:最初の嘘の領収書
- 第2部第18話:取り消した引受人
- 第2部第19話:旧名の窓口
- 第2部第20話:封じた人の署名
- 第2部第21話:返す前に見せた部屋
嘘を売る人
27 / 34
このシリーズの全話 34編
- 第1話:白紙の契約者
- 第2話:存在しない地主
- 第3話:紙の花を折る女
- 第4話:父の住所で待つ男
- 第5話:買い手を間違えた嘘
- 第6話:値段のない庭
- 第7話:黒瀬の寄付
- 第8話:悪役の領収書
- 第9話:嘘を買わなかった人
- 第10話:白紙に書かれた本名
- 第11話:嘘を売らない女
- 第12話:父が買わなかった真実
- 第2部第1話:未決済の買い手
- 第2部第2話:未来の領収書
- 第2部第3話:正直屋の開店日
- 第2部第4話:相棒を売った封筒
- 第2部第5話:2日目の値札
- 第2部第6話:値段のない上司
- 第2部第7話:空白の代替要員
- 第2部第8話:回答者の消えた面接票
- 第2部第9話:買われなかった署名
- 第2部第10話:父が断った依頼
- 第2部第11話:依頼人ではない代理人
- 第2部第12話:開店前の正直屋
- 第2部第13話:嘘を買わない客
- 第2部第14話:値札を外した証人
- 第2部第15話:証言を買った店主
- 第2部第16話:灯が買った証言
- 第2部第17話:最初の嘘の領収書
- 第2部第18話:取り消した引受人
- 第2部第19話:旧名の窓口
- 第2部第20話:封じた人の署名
- 第2部第21話:返す前に見せた部屋
- 第2部第22話:失敗を見せる相手
嘘を売る人
27 / 34
このシリーズの全話 34編
- 第1話:白紙の契約者
- 第2話:存在しない地主
- 第3話:紙の花を折る女
- 第4話:父の住所で待つ男
- 第5話:買い手を間違えた嘘
- 第6話:値段のない庭
- 第7話:黒瀬の寄付
- 第8話:悪役の領収書
- 第9話:嘘を買わなかった人
- 第10話:白紙に書かれた本名
- 第11話:嘘を売らない女
- 第12話:父が買わなかった真実
- 第2部第1話:未決済の買い手
- 第2部第2話:未来の領収書
- 第2部第3話:正直屋の開店日
- 第2部第4話:相棒を売った封筒
- 第2部第5話:2日目の値札
- 第2部第6話:値段のない上司
- 第2部第7話:空白の代替要員
- 第2部第8話:回答者の消えた面接票
- 第2部第9話:買われなかった署名
- 第2部第10話:父が断った依頼
- 第2部第11話:依頼人ではない代理人
- 第2部第12話:開店前の正直屋
- 第2部第13話:嘘を買わない客
- 第2部第14話:値札を外した証人
- 第2部第15話:証言を買った店主
- 第2部第16話:灯が買った証言
- 第2部第17話:最初の嘘の領収書
- 第2部第18話:取り消した引受人
- 第2部第19話:旧名の窓口
- 第2部第20話:封じた人の署名
- 第2部第21話:返す前に見せた部屋
- 第2部第22話:失敗を見せる相手
嘘を売る人
27 / 34
このシリーズの全話 34編
- 第1話:白紙の契約者
- 第2話:存在しない地主
- 第3話:紙の花を折る女
- 第4話:父の住所で待つ男
- 第5話:買い手を間違えた嘘
- 第6話:値段のない庭
- 第7話:黒瀬の寄付
- 第8話:悪役の領収書
- 第9話:嘘を買わなかった人
- 第10話:白紙に書かれた本名
- 第11話:嘘を売らない女
- 第12話:父が買わなかった真実
- 第2部第1話:未決済の買い手
- 第2部第2話:未来の領収書
- 第2部第3話:正直屋の開店日
- 第2部第4話:相棒を売った封筒
- 第2部第5話:2日目の値札
- 第2部第6話:値段のない上司
- 第2部第7話:空白の代替要員
- 第2部第8話:回答者の消えた面接票
- 第2部第9話:買われなかった署名
- 第2部第10話:父が断った依頼
- 第2部第11話:依頼人ではない代理人
- 第2部第12話:開店前の正直屋
- 第2部第13話:嘘を買わない客
- 第2部第14話:値札を外した証人
- 第2部第15話:証言を買った店主
- 第2部第16話:灯が買った証言
- 第2部第17話:最初の嘘の領収書
- 第2部第18話:取り消した引受人
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